陶磁に見られる境界観念について04

忌瓮のこと

 『古事記』 や『万葉集』 には、『忌瓮(いはひへ)』という土器・陶器の器が出てくる。赤坂憲雄が指摘するように(赤坂憲雄『境界の発生』講談社学術文庫、2000) 、『古事記』では、孝霊天皇の項に

かれ、大倭根子日子国玖琉命(おほやまとねこひこくにくるのみこと)は天(あめ)の下治(し)らしめしき。大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)と若健吉備津日子命(わかたけきびつひのこみこと)とは、二柱相(あい)副(そ)ひて、針間(はりま)の氷河(ひかは)の前(さき)に忌瓮(いはひへ)を居(す)ゑて、針間を道(みち)の口(くち)として、吉備国(きびのくに)を言向(ことむ)け和(やは)したまひき。

とあり、吉備国を平定し、播磨の国からの入口に、つまり吉備と播磨の国境に忌瓮を据えたとしている。壺を据えることによって、境界を明らかにすると同時に、悪霊が入り込まないことを願う呪術でもあるのかもしれない。さらに崇神天皇の「建波邇安王(たけはにやすのみこ)の反逆」に

かれ、大毘古命(おおびこのみこと)さらに還(かへ)り参上(まゐのぼ)りて、天皇に請ふ時、天皇答へて詔(の)りたまはく、「こは山代国なるなが庶兄建波邇安王(たけはにやすのみこ)、邪(きたな)き心を起せし表(しるし) ならむのみ。伯父(おじ)、軍(いくさ)を興(おこ)して行(いでま)すべし」とのりたまひて、即ち丸邇臣(わにのおみ)の祖(おや)、日子国夫玖命(ひこくにぶくのみこと)を副(そ)へて遣はしし時、即ち丸邇(わに)坂(さか)に忌瓮(いはひへ)を居(す)ゑて罷(まか)り往(ゆ)きき。

とあり、これから攻め入る地域との境界である丸邇坂―坂の表記は境界であることが多い―に斎み清めた瓶を据えて神に祈ったとのことである。忌瓮という壺が神の依代として、呪術性を帯びたものとして位置づけられている。この場合、地域的な堺である丸邇坂と、神と人間との結びつけ、仲介するものとして忌瓮があるのである。つまり地域的な境界を示すと同時に、神の領域と人間社会の境界をも示しているのである。

続く

陶磁に見られる境界観念について03

古代における境界の観念

 内的世界と外的世界を隔てる境界は古くから人々の意識するところであった。では境界について人々はどのように顕在化させてきたのであろうか。
 世界最古の法典とされる『マヌの法典』(田辺繁子訳『マヌの法典』岩波文庫、1953) で、境界は次のように明らかにされている。

8-246
境界は、これを、ニアグローダ、アシュヴァタ、キンシュカ、シャールマリ、サーラ、パラミラパルム、及び乳汁の出る木にて作るべし。
(榕樹、菩提樹、緊叔迦樹、沙羅樹など)

8-247
叢林、種々の竹、シャミー、蔓草及び堤、蘆、クブジャカの叢林によりて作るべし。かくすれば境界は消滅することなし。

 つまり、境界は乳汁の出る木や、聖性を感じさせる樹木で作ることや、樹木や竹が群がって生育し叢林と為した場所とすべしとしている。また水のあるところと境界の結びつきを示しているのか


8-248
貯水池、池、溜池、及び泉、更に寺院は境界の合するところに造らるべし。

とあったり、長い時間変化しないものを壺に入れて埋設することによって、境界を示せとの記述がある。

8-250
石、骨、牛の毛、籾殻、灰、陶片、乾燥せる牛糞、煉瓦、炭、小石、及び砂、
8-251
又同様の種類の他のものにして、長期間を経るも土の腐蝕 せざるものを、何にても境界の合する所に埋没せしむべし。

8-250に見られる「長期間を経るも土の腐蝕せざるもの」を境界に埋める場合に、器の指摘はないが、「これらのものは壺に入れなければならなかった。」と井本英一(井本英一『境界祭祀空間』平河出版社、1985)は指摘している。
ここに土器・陶器である壺と境界の結びつきを見ることができる。

日本では奈良時代前期に編纂されたとされる風土記の中に、「瓫」、「甕」などが二つの世界の境界を示したり、別の世界へ通じる呪術性を帯びたものとして描かれている。例えば『播磨国風土記』(沖森卓也佐藤信・矢嶋泉 編『播磨国風土記山川出版社、2005によった)の託賀郡の条には「甕坂」の名の由来として、次のような記述がある。

甕坂(みかさか)は、讃伎日子(さぬきひこ)逃げ去きたまひし時に、建石命(たけいはのみこと)、此の坂に遂(やら)ひて云ひたまひしく、「今より以後(のち)は、更(また)此の界(さかひ)に入ること得じ」といひた まひき。即ち、御冠(みかげ)を此の坂に置きたまひき。一家(あるひと)云へらく、「昔、丹波(たには)と播磨と、国を堺ひし時に、大甕(おおみか)を此の上に堀り埋めて、国の境としき」 といへり。故、甕坂と曰ふ。

 甕坂の地名の由来について、ひとつは建石命が御冠を置いたからであるとし、別の説として、甕を国の境に埋めることによって境界としたとしているのである。同様な例は後述するように『古事記』や『風土記』の中に「忌瓮」を境界に据えて祀ったとの記事にも見える。

壺・甕と境界

 これらの事例や記録は、古代から人々が内部世界と外部世界を区切る境界を強く意識していたことの表れである。それはただ単に地域的な領域の境界に留まらず、生と死、文化と野生、この世とあの世などの二つの世界を分け隔てる場として様々に転化して想起されたのであろう。境界には、その場を示すシンボリックな物、色彩、また時間的な境界には音などがあった。中でも今日では理解されることが困難になった境界を示す壺などの陶磁器について考える。
既に述べたように、アドニスの壺は享楽的で刹那的なアドニス祭の時間を、快楽と同様に不毛を内包したものとして、海に投げ捨てられる。それは日常的な時間へと帰ることのシグナルであり、その意味で境界を象徴する壺であった。
 また『マヌの法典』では境界が、「石、骨、牛の毛、籾殻、灰、陶片、乾燥せる牛糞、煉瓦、炭、小石、及び砂」という「土に腐蝕せざるもの」を壺に入れて示せとのことであった。つまり、境界が簡単に曖昧にならないように不変なもので示せとのことであろう。陶器の壺は不変なもののシンボルであった。
播磨国風土記』の甕坂の名の由来に関する記述は、後述するように、日本古来からの空ろな器に神秘性を見る呪術的な指向につながることだと思われるが、空洞の壺を境界に埋めることによって、呪術的な結界をなすとのことであろう。
 壺が呪術性や聖性を持つものであるとの観念は『常陸国風土記』(秋本吉徳 訳・注『常陸国風土記講談社学術文庫、2001によった)那賀郡(なかのこほり)の晡時臥(くれふし)の山についての記述に

茨城(うばらき)の里。此より以北(きた)に高き丘あり。名を晡時臥(くれふし)の山と曰(い)ふ。古老(ふるおきな)の曰(い)へらく、兄(あに)妹(おと)二人有りき。兄の名は努賀比(ぬかび)古(こ)(田辺に比)、妹の名は 努賀比(ぬかび)竎(め)(田辺に比)といふ。時に、妹、室(むろ)に在りしに、人有り、姓名(な)知らず、常に求婚(よばい)に就きて、夜来りて昼去(い)にしが、遂に夫婦(めおと)と成り、一夕(ひとよ)に懐妊(はら)めり。産(こう)むべき月に至りて、終(つい)に小さき蛇(へみ)を生めり。明くれば言(こと)無きが若(ごと)く、闇(く)るれば母と語りき。是(ここ)に、母と伯(えをぢ)と、驚き奇(あや)しみ、心に神の子(みこ)ならむとおもひ、即ち、浄(きよ)き杯(つき)に盛りて、壇(うてな)を設(ま)けて安置(お)きしに、一夜の間(ほど)に、已(すで)に杯の中に満てり。更(また)、瓫(みか)に易(か)へて置けば、亦(また)瓫の内に満ちぬ。
此(かく)の如きこと三たび四たびにして、器(うつはもの)を用ゐるに敢(あ)へず。母、子に告げて云へらく、「汝(いまし)が器宇(うつはもの)を量るに、自(おのづか)ら神の子なることを知りぬ。我が属(うから)の勢(いきほい)は、養(ひ)長(た)す可(べ)からず。父の在(いま)す所に従(ゆ)く宜(べ)し。此に有る合(べ)からず」といへり。時に子、哀しみ泣き、面(おもて)を拭(ぬぐ)いて答曰(こた)へけらく、「謹みて母の命(みこと)を承(うけたまは)りぬ。敢へて辞(いな)ぶる所無し。然れども、一身(ひとりみ)の独(ひとり)して去(い)なば、人の共に去(ゆ)くもの無し。望請(ねが)はくは、矜(あはれ)みて一(ひとり)の小子(わらは)を副(そ)へたまへ」といへり。
母の云へらく、「我が家に有る所は、母と伯父(えをぢ)とのみ。是(こ)も亦、汝が明らかに知る所なり。人の相(した)従(が)ふ可(べ)きもの無かる当(べ)し」といひき。爰(ここ)に子、恨みを含みて事吐(ものい)はず。決別(わか)るる時に臨みて、怒怨(いきどほり)に勝(た)へず、伯父を震殺(かむときしてころ)して、天に昇らむとする時に、母驚動(おどろ)きて、盆(ひらか)を取りて投げ触(あ)てければ、子得昇らざりき。因りて、此の峰に留まりき。盛りし所の瓫(み)甕(か)は、今も片岡の村に在り。その子孫(すえ)、社を立てて祭を致し、相続(あひつ)ぎて絶えず。

とあり、神の子である蛇を育てる器が「浄(きよ)き杯(つき)に盛り」、「壇(うてな)を設(ま)けて安置(お)きし」、「瓫(みか)に易(か)へて置けば、亦(また)瓫の内に満ちぬ」と段々と大きくなる様子が描かれているが、杯、壇と神の子らしく信仰に連なる空間に祀られているが、遂には瓫の中で育てられることとなった。瓫が選ばれたのは、その空ろな内部がおどろおどろしい場所として聖性を持った場所と認識されたからであろう。さらに「怒怨に勝へず、伯父を震殺して、天に昇らむとする時に、母驚動きて、盆を取りて投げ触てければ、子得昇らざりき。」とあるように、憤りによって、伯父を震殺して、天に昇ろうとした蛇である子に、「盆(ひらか)」を投げつけて当てることにより断念させた、とのことである。秋本吉徳は本書の注の中で、この場合の「盆」は古代において土器で出来た皿や瓫は呪術的な力をもっていたと信じられたからであろうとしている。そして、地に落ちた神の子の蛇は瓫甕に納められるというのも、土器製の壺の持つ呪術的な神秘性ゆえであろう。

続く

陶磁に見られる境界観念について02

カーニバルから

 カーニバルと聞いて思いつくのは、ブラジルはリオデジャネイロのカーニバルや、イタリアのヴェネツィアのそれだが、日本の長野県飯田地方の南アルプスの麓、上村で十二月初旬に行われる「霜月祭」や、早川孝太郎著の『花祭』で知られる愛知県設楽郡豊根村東栄町で十一月から十二月にかけて行われる祭も、「意識の内側の違和的なものを顕在化させ、一夜限りで終わらせたり、追放したりして、日常世界におけるエントロピーの増大を防ぐことが願われている」という点では、出自や趣旨は違っているがカーニバルに当たるものであろう。
山口はカーニバルの祝祭について

カーニバルの祝祭は、本質的に、転換の意識に付随する両義的な世界感覚の表現である。したがって、この日は、阿呆王を選び出して、戴冠をし、一日中悪ふざけに熱中し、すべての秩序を停止し、混沌をして世界の基調ならしめる。あらゆる価値、人、事物は、それが通常所蔵してい る文脈から離れて、他の事物と、意外としか言いようのない事物と結びつき、それらが日常生活では現わさない潜在的意味を表面させる。つまり、存在する事物が、日常の効用性の文脈では示さない異貌ともいうべき「響き」が、祝祭日の宇宙の基調となるのである。騒音すらもこの日 の意識の過渡的状態を仲介する不可欠の要素となるのである。

と書くのである。「響き」あるいは非日常的な音という点で、カーニバルは街を喧噪の巷としてしまうことや、叫び声をあげる、太鼓を打ち鳴らすなど、祝祭には音がつきものである。

アドニス祭礼と境界

 さて、境界での祝祭であるカーニバルの典型をギリシャアドニス祭に見ることはできないだろうか。またアドニス祭礼には「アドニスの庭」と称される壺が重要なアイテムとして登場する。アドニス祭礼とは、ギリシャ時代に夏の盛り、アドニス神話におけるアドニスを祭る祭礼である。正式な婚姻関係を持たない女性や娼婦が、家に男友達を招待してどんちゃん騒ぎをする祭りである。まずアドニス神話とはなんだろうか。

高津春繁『ギリシャローマ神話辞典』(岩波書店、1960)の、アドニス神話によれば
キニューラスの家系はアフロディーテーを信仰してきた。しかしキニューラスの王女ミュラは美しさ女性だったが、ある人が「アフロディーテーよりも美しい」といったことにアフロディーテーは怒り、ミュラが父王キニューラスを恋焦がれるようにしむけた。乳母の導きで父王と一夜をすごし、身ごもってしまう。怒ったキニューラスはミュラを殺そうと 追いかけるが、哀れに思った神々がミュラをミルラ(没薬)の木に変え たしまった。その木に野猪ぶつかり木がさけて生まれたのがアドニスである。アフロディーテーは美しい子供のアドニスを箱に入れ、中を見るなと告げて冥界のペルセポネーに預ける。ペルセポネーは箱の中を見てしまい、その子供の美しさにほれ込んで、アフロディーテーに返さない でいる。アフロディーテーの申し出で、調停したゼウスは一年の三分の一を冥界のペルセポネーと三分の一はアフロディーテーと、あとの三分の一はアドニスの自由とした。アドニスは狩りに出たときにアフロディーテーに嫉妬したペルセポネーの策略で野猪に殺される。その時流れた血からアネモネが生まれ、アフロディーテーの涙から薔薇がうまれた。

 自分の父と関係してしまった母ミルラは怒りの父に追われ、神々に香料のもとともなる没薬(ミルラ)の木に変えられる。そのミルラ(没薬)の木から生まれたアドニスは、幼くして美と愛の神アフロディーテーと冥界に住むペルセポネーに愛され、はかなく命を落としていく。アドニスは英雄でも神でもなく、女神たちに溺愛され、美少年の妖しいエロスを香料の催淫作用とともにふりまいていく。そのアドニスを祭るのがアドニス祭である。
 M・ドゥティエンヌによれば、アドニス祭は、神々にささげられる香料、またそれは反面、人間において催淫をもたらすものでもある香料に深く関わり、穀物、その再生をつかさどるデメテルを祭るテスモポリア祭と対照をなしているとしている。
デメテルのテスモポリア祭は、その開始にあたって家庭の主婦に禁欲を強いる。それは禁欲の努力の結果が、真面目な農耕における穀物の収穫という暗喩に結びついているからだ。穀物の種子の蒔かれる場所は、恵みの大地であり、八か月の月日を要して収穫されることになる。それは地道な禁欲的努力の結果である。それを祭るテスモポリア祭は「真面目」、「良いものを生みだす繁殖力」、「成熟」「根がついている」を暗喩的に示している。それに対してアドニス祭の期間には、遊び、気ばらしがあり、肉体の快楽に身をまかせる淫蕩の時である。「アドニスの庭」と称される籠や壊れかけて不完全な壺に撒かれたウイキョウ、レタス、小麦、大麦の種子は、夏の盛りの八日間で儚く芽吹き成長し、萎れ、枯れていくことになる。アドニス祭は「表面的で軽薄」、「成熟しない」、「良種のものを生まない」「根がない」を暗喩している。そしてテスモポリア祭が正式な婚姻による正妻の禁欲を伴う公式な祭礼であるのたいして、アドニス祭は娼婦や妾が男友達を私邸に招いてするどんちゃん騒ぎによる私的な祭である。
 アドニス祭期間中に「アドニスの庭」といわれる壺は、日の照りかえる屋根の上にのせておくのだが、当然、四種の種子は、タンムーズ神話など農耕神話における、死の状態(種)からの生命の再生などではなく、ただただ空しいことの実行である。つまりアドニスにシンボライズされた秩序とは相いれない愛欲、放縦の虚無性である。デメテルの祭礼であるテスモポリア祭が、正式な婚姻、禁欲を前提とした抑制され、子孫を得ることが願われた性欲の行使が正当化するための祭であるのに対して、アドニス祭は娼婦たちによる、無秩序な男女の関係、秩序を破壊しかねない快楽と放縦に満ちた愛欲の行使、そして何も生まない快楽だけにフォーカスした祭である。種子を撒き、成長させ、萎え、枯れさせた「アドニスの庭(壺)」は祭の最後に海などに放擲される。
 壊れかけたアドニスの壺は虚無を内包することによって、撒種と収穫という正当な農耕への反秩序としての裂け目のような場を提供し、アドニス祭における境界のありようを際立たせているといえないだろうか。虚しいが故に境界の象徴たりえるとのことは、古代における陶磁器と境界の観念について暗示的である。

続く

陶磁に見られる境界観念について

久しぶりに日記を書く。これからは自分の書いたものを積極的に公開していくこととする。
最初は「陶磁に見られる境界観念について」という大学の紀要に書いたものだ。

陶磁に見られる境界観念について

その一境界とは

東京国立博物館所蔵の長谷川等伯『松林図屏風』には、霧の中で見え隠れする松林が描かれている。ほかにはなにも描かれていない。ただ立ち込める霧と、その中に肢体にも例えられる、松のシルエットが見えるだけである。ある松は霧の中に消えかかり、またある松は霧のこちら側で黒々とその輪郭を見せている。いうまでもないことだが、霧だけを絵にすることは出来ない。この屏風はそこに松林を描くことによって、霧を意識化させている。この霧と松林は私たちに何を伝えようとしているのだろうか。
 霧の中の松林は、そこからは見えない霧の向こうが気にかかる。つまり霧にけむる松林を見ているひと―この場合は長谷川等伯―のいる「こちら側」と、霧によって隠され見えない「向こう側」の両方を意識させられるのである。このことから『松林図屏風』は「こちら側」と「向こう側」というふたつの世界の境界を、霧によって見え隠れする松林として描いたのだ。境界を描くことは「こちら側」とは違う、見えない別世界である「向こう側」を意識化させることである。「向こう側」は「あの世」「彼岸」「浄土」であり、「幽玄」な世界である。

 山口昌男は『文化の両義性』のなかで、民俗文化の中での境界の特殊性についてふれ

民俗において、境界というのは、意味出現直前または消滅寸前の混沌の表現であるといえよう。混沌は、好ましからぬ要素で生活の秩序には入ってきてもらいたくはないが、時と場所を限定して意識、話題にのぼることが秘かに望まれる要素であり、それは民俗の中で様々な形をとる。
境界は、内と外、生と死、此岸と彼岸、文化と自然、定着と移動、農耕と荒廃、豊穣と滅亡といった多義的なイメージの重なる場所であった。

と境界は相対する二つの世界の両義的な様相を示し、二つの世界がそれぞれの相貌を表すことによって、世界を再度活性化させる場であり、時間であるとした。秩序にとっては混沌が、文化に対しては自然が、それぞれの相をあらわにする場所と時間が境界なのである。身近では、家の内と外を隔てる玄関。昼と夜の間、すなわち朝と夕。都市と田舎を繋ぐ長距離列車が発着する駅。雑多な人々とものが行きかう市場。日常的な時間や習慣を逸脱して、どろんこになったり、無礼講がゆるされる祭礼などが境界になるのである。
 網野善彦は『日本の歴史をよみなおす』のなかで、日本中世の市を境界としてとらえ

日本の社会では、河原、川の中州、あるいは海と陸の境である浜、山と平地の境目である坂などに市が立つのが普通です。このように市の立つ場は特別の意味をもった場なのですが、そうして開かれた市場は、日常の世界とはちがい、聖なる場所、神の世界につながる場であると考えられていました。
そこにはいると、モノも人も世俗の縁から切れてしまう。つまり無縁の状態になるのではないかと思うので、そうなった時にはじめて、モノとモノとを、まさにモノそのものとして交換することが、可能になるわけです。いいかえれば、市の場では、モノにせよ人にせよ、いったん、神の世界のものにしてしまう。また別の言い方をすれば、誰ものでもないものにしてしまう。そのうえでモノとモノの交換がおこなわれるのではないかと思うのです。

として、中世の市がまさに神の世界との境界を内包した特殊な場所であったがゆえに、成立していたと指摘している。市は四日市八日市の地名が示すように、ある定められた日に仮設的な小屋掛けのもとで開かれていたようである。市にちょっとした祝祭であり、共同体の周辺や外部から様々なものが持ち込まれ、それに伴い見知らぬ人々も見かける場であったろう。それはまさに境界的な混沌であり、多義的な世界なのであった。
かつて人々は自分たちの秩序を維持できる日常的な世界と、日常とは別の、外側の未知の世界、自分たちではどうすることもできない神の領域、魑魅魍魎の世界を意識化していた。そして境界外の意識化は、帰属する共同体の内側における、異質なものの排除としても顕在化していた。山口はそのことにふれ

人は連続性の線の内部への侵入をおそれる。この侵入を防ぐ行為は、境界および防壁を築くことによって解決される。ところがこれは外来者の侵入を防ぐというより、意識の内側の「異和的」な部分を可視的なものに転化することによって外在化し、こうして、境界外に追放しようとする願望にほかならない。

とした。例えば祝祭において、よく日頃は普通の姿の人々が過剰に着飾ったり、または汚されたりするのは、意識の内側の違和的なものを顕在化させ、一夜限りで終わらせたり、外部に追放したりして、日常世界におけるエントロピーの増大を防ぐことが願われているのだ。したがって祝祭は境界なのである。

続く