1/24日本の装飾美術ゼミ第5回 霜月祭で思ったこと「遠い山なみ」です

遠い山なみ

昨年12月、長野県飯田市上村遠山郷霜月祭を見た。2001年、2010年に続いて三回目である。一回目の時、私はその不思議なエネルギー感を全身に浴び、ただただ驚くばかりであった。その衝撃は、それまでの自分の調査や研究が、果たして意味のあるものなのかどうか疑問を持たざる得なくなるくらいのものであった。なぜ霜月祭を見に行ったのか。それは民俗学的興味というよりは、その頃研究していた茶の湯と道具との関わりからであった。
茶の湯は日本の文化の真髄とされる。その「幽玄」と「わびさび」が和歌などとともに日本文化の特徴づけていると説明されている。しかし茶の湯には、もっと日本の基層的な文化がその基本にあるのではないかと考えていた。茶室、道具、とりわけ茶碗には、古くからの呪術的な意味合いがあるのではないか、陰陽五行説などの自然哲学が見て取れるのではないか、と思っていた。それは今日、茶礼の振る舞いが礼儀作法で説明され、道具の形態や色彩、さらにはその扱いが、近代合理主義の機能性で説明されることへの疑いから発した研究であった。茶釜で湯を立てることも、ただ単にお茶のための湯を沸かすだけではないと、そこには火と水に関わる呪術があると思われた。炉は四角、茶釜(多くの場合)と丸であり、それだけで陰陽となる。炉でおこされる火と茶釜の水もまた陰陽をなす。つまり炉と茶釜の織りなす炉辺はそれだけで小宇宙を形成しているのではないかと考えた。そんな考察を進める中、多くの神社で神事として執り行われる「湯立神事」のことが気になっていた。
湯立神事」とは神社で、正月、祭、神楽に際して、大釜に湯を沸かし、その湯を榊などの葉で掬い、祭礼や神楽の参加者にふりかける神事である。この際、湯は聖性を帯びており、湯を浴びることが神さまのご利益にあずかれるということである。「湯立神事」において釜で熱した湯が聖性を帯びるということは、呪術性を帯びていると考えられる茶の湯の中で、湯の沸く音を「松風」といって、その神秘性を愛でたりすることを含めて、茶釜の湯もまた聖性を持つものではなかっただろうか。さらに茶釜の湯の聖性は、茶の湯が茶席という一座を建立して、座のものたちが茶という聖性を、ともに取り込む儀礼であるとの考えに合致しているのではないかと思ったのである。そんな茶の湯研究の中での参考のために、一度「湯立神事」を見てみようと考えていたのである。さらに2001夏に公開された、スタジオジブリの「千と千尋の神隠し」における「油屋」のお風呂の原型が遠山郷霜月祭で使われる炉と釜であることを知り、12月に行われる霜月祭を見に出かけることとしたのである。

2001年に行ったのは長野県下伊那郡上村(現在は飯田市)上町地区にある正八幡宮であった。午後7時くらいから参加したのだが、あまり作りの良くない安普請の祭会場は人もまばらで、事情を知らないものとしては、拍子抜けすると同時に、こんなところに来てしまって良かったのだろうかと不安になるような雰囲気であった。場の中央には仮設の土製のカマドが二つ据えられており、時折マキがくべられ、マキがぱちぱちと弾け、燃える火が明るい朱色となっていた。カマドの周囲には神様をあらわす小ぶりな御幣が立てかけられ、カマドの上には鉄製の直径1メートルほどの湯釜が据えられ、湯がたぎっていた。確かに祭は始まっているようだったが、ただ義務的に祭の日程をこなしているといった雰囲気が流れていた。そのやや寂しげに流れる時間の中にいると、これが霜月祭なのだろうかと、出かけてきたことを悔いる気分が生じていた。
しかし時が経つにつれて、参加者が増えていき、日付が変わる頃には祭会場が人であふれかえるようになっていった。そのうち、人々の喧騒と熱気、滞りがちに進行するスケジュール、やや不安なリズムを刻む太鼓の音、ヒョロヒョロとした笛の音、ウロウロとぎこちなく歩む仮面をした神々、鬼、怨霊などが、渾然一体のカオスとなって場を埋め尽くしていった。夜の終わりころには、鬼が祭場を暴れまわり、人々は鬼がさらに暴れるようにと、さかんに鬼にけしかける。さらに釜の湯が天狗面の若者によって、素手で激しく弾かれ、祭の参加者は湯を浴びることとなる。朝になると全てを統べる「天伯」という神が天地と四方を鎮めるのであった。その頃には、寝不足と祭会場に居続けた疲労感から頭がボーとし、うまく状況に適応していない自分がいるのだった。夜は開け、人々はとぼとぼと家路につくのだった。

私は霜月祭の混沌の中に、未だ知られざる美術の可能性を見た思いがしたのであった。例えば今に至る「境界」への関心も、この経験がきっかけであった。一夜の祭の激しい混沌が、人々の恨みや汚れを払い、夜明けとともに世界は一度清められ、再生するのであるが、その夜明けが時間としての「境界」にあたるではないかと思ったからである。考えてみれば、そのように二つの事象が際立ち、その間に境界が見て取ることは、時間、場所などに色々とあるのではないかと思うようになった。また、この経験から、現代の美術やデザインの新しい地平は、美術館やギャラリーから開かれるのではなく、辺鄙じゃ山奥や海岸の祭礼や民俗行事、あるいは都市における異端な振る舞いから開かれるのではないかと考え始めた。そこで霜月祭の経験から、各地の神楽を見に行ったり、祭礼に参加したり、各地の巨石を訪ねたりしているのである。そこにはソフィストケートされた都市では目にすることのできない猥雑な空間と音、そして美術という範疇を超えた色彩感に溢れているのであった。

私のように北海道生まれで、しかも酪農地帯という西欧近代が色濃く様々な価値観に反映している地域で少年時代を過ごし、日本の民俗的伝統の希薄なところで文化的基盤を培った身には、津軽海峡の南の本州以南で見聞きする伝統行事の多くは少なからぬ驚きをもつものであった。でもそれは「古く懐かしい日本」というステレオタイプな観念を超えるものではなかった。しかし、霜月祭での経験以後、まだ知らない日本がまだまだあるのだと思うようになった。それは混沌と逸脱であり、
説明のつかないエネルギーに満ちたものである。

だが、様々な地域の祭や行事を見に出かけるうちに、その場に出かけてきた傍観者でしかない自分を思い知らされることとなった。歴史と民俗学の知見に多少の興味を持ち、地方の神楽や祭を見ても、それは、自分の知的好奇心を満足させるだけのことではないか。けっして、その土地の祭に当事者として参加していないし、時にはカメラをぶら下げて歩き回っていると、土地の若者から「なにしに来た!」と罵倒されることもあった。それはそうだろう。よそ者が、なんで自分たちの祭でウロウロしているのだ、感じるのは当然である。そんな経験を経て、祭を当事者として参加している人々には、明らかに「この場所」という依ってきたる空間があるが、私には、その依るべき場所がないことに気がつき始めた。それは、私はどこにいるのだろうか、という不安でもある。

最初の霜月祭行きの時、幸い祭の翌日は天気が良く、雪もなかったので、上村の下栗地区まで車で登ってみた。そこは宮本常一の写真集でも紹介されている、大きなV字谷を眼下に見る、山肌に張り付くような山村であった。車を止めて、村の一角に佇んだ時、ずいぶん遠くに来たものだと、深く感じていた。V字谷と稜線のはるか向こうには南アルプスの峰々が望見できた。雪に覆われた聖岳が静かにそびえ立っていた。

今思えば、霜月祭もまたあの時、下栗から望み見た聖岳のように、私にとっての「遠い山なみ」なのかもしれない。近寄ることのできない、彼方から仰ぎ見るだけの「遠い山なみ」である。今回の霜月祭行きもまた、その思いを強く感じさせる旅であった。