7月25日の日本の装飾美術ゼミでは「食」を考えます

食とは ーもう一つの日本の食文化についてー

今日、私たちは豚肉や牛肉をスーパーでプラスチック製のトレーに盛られた、料理しやすいように加工されたものを購入して料理し、食しています。

トレーにのせられラップでカバーされた切り身の食肉を、私たちはまるで工業製品のように工場で機械がつくりだしたもののように認識しているのではないでしょうか。元は豚なり牛なりの生命を宿したいきものであり、そのなれの果てだとは思い至ることはあまりありません。しかし肉を食べるということは、確実に生命の殺戮(屠殺)の結果です。

「食べる」とはなんでしょう。現代では「食べる」とは食欲を満たすなど生理的な現象として捉えられています。また食事時の感謝も「お米を作った農家の人に感謝しなさい」とは理解されても「肉になってくれた豚や牛に感謝しなさい」とはいいません。現代の日常化した食事は「食べる」本来の感動を欠落させているように思われます。人々にとって「食べる」は必死のふるまいの結果でした。人類は農耕を始める以前、懸命に山野に獣を追いかけ、幸運にも獲物を捕まえると解体してその肉を皆で分け与えて食べていたのです。稲作などの農耕の時代になっても「食べる」は撒種から収穫まで、神にすがりながらの生活でした。

アイヌイヨマンテでは、神の使いである熊を屠り、神の贈り物である肉に感謝を込めて頂き、神の化身である熊をふたたびあの世に送る祭りです。獲物の肉は神からの賜物であり、食することは神への感謝であることをシンボリックに示した祭りと理解できます。ところでイヨマンテの原型は日本列島全体にあり、もともとはイノシシを矢で射って殺したのちに祭壇に捧げ、直会として食したのち「あの世」に送る祭りであったと考えられています。アイヌの人々も元はウリ坊を本州から輸入し、飼育した後に、現在のイヨマンテと同じようにあの世に送っていたとされます。その後本州以南でイノシシの祭りが少なくなり、その代わりとして熊を神の使いとしたとのことです。(瀬川拓郎『アイヌ学入門』講談社現代新書、2015)

イヨマンテにしても、イノシシの祭りにしても狩猟による獲物の獲得とそこから得られる肉という神からの直接的な賜物に対する感謝があります。日本列島における原始的な狩猟の衰退とともに、このような神への直接的な感謝は衰退したようです。

本州以南では農耕(この場合、稲作だけではなく焼畑農耕もふくむ)の浸透や肉食の禁忌によって狩猟が廃れましたが、農耕でも狩猟と同様に、収穫は神がもたらすものであるとの観念は引き継がれたようです。そのなかでは鹿やイノシシやその代替物を供儀することが行われていたようです。

佐々木高明氏は『稲作以前』(NHKブックス、1971、『新版 稲作以前』として2014年に再度出版された)で奥三河における早川孝太郎の戦前の調査を引いて、北設楽郡振草村(現東栄町)では二月初午の日に、稲荷社の前で青杉の葉で実物大の鹿を作り、これを神官が弓矢で射ったのち、あらかじめ鹿の腹の中に入れてある、小豆と米を入れた苞をサゴ(鹿の胎児)だといってとり出します。村人はこのサゴからとり出した米に境内の土をまぜ、あらたな包みをつくり、それを家に持ち帰って、エベス棚に供えるとのことです。つまり神の化身である鹿が胎児を生み出す力が、農耕の豊穣をもたらすと観念されているのです。

播磨国風土記』讃容郡の項に「津日女命、生ける鹿を捕り臥せ、其の腹を割きて、稲を其の血に種きたまひき。仍りて一夜の間に苗生ふれば、即ち取りて植ゑしめたまふ。」とあります。おそらく鹿や猪などの野獣を捕え、それを犠牲にして、その血を種モミや大地に注ぎ、稲の豊作を祈った儀礼の存在を背景にしているとのことです。(『稲作以前』前掲書)

千葉徳爾さんの『狩猟伝承研究』(風間書房、1969)には、宮崎県西都市(旧東米良村)の銀鏡神社の祭りの中でも狩猟行事としての特徴と臼や杵を用いる農耕儀礼的な要素が結合しており、狩猟と農耕の豊穣を願い神事が、結びついているとしています。また、東米良の山村では旧正月に各地区が合同して、モヤイガリという共同狩猟に出る慣行もありました。同じような儀礼的な共同狩猟は、九州、奥三河の山村だけではなく、四国・山陰・紀伊・奥羽の各地にも、その痕跡を留めているとしています。千葉さんはそれらのことから「春のはじめもしくは秋の終り、農耕の開始もしくは終了のときに当って、村落共同体な集団が全員で狩猟を行い、その獲物で神を祭る儀礼が古くは全国にあったらしい」と推定し、さらに「春の農耕にさきがけて、村落の全員の参加する儀礼的な狩猟が東南アジアのものに対比できるとするならば、それは狩猟民族の狩猟生産を目的とする行為というよりは、農耕民がその収穫をより豊かにするために呪術的行為として行なう動物犠牲の祭りであると考える方が適切ではあるまいか」という意見を述べています。このことは修験者が祭礼で儀礼的に弓矢を放つこととか、山の神に豊作を祈願することにも通じているのかもしれません。

ところで、古代ギリシャのテスモポリア祭についてBarbara G. Walkerは「デーメーテール・テスモポロスDemeter thesmophorosを祝う女だけの祭り。女たちは種ムギに生命を与えるために、自らの経血を混ぜ合わせた。ブタを生贄として捧げ、果皮、ヘビ、女陰の形に似せて作った菓子を持って練り歩いた。3日目に、犠牲に供された者たちは、大地-子宮から姿を現し、「素晴らしき誕生」を迎えた。」(The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets , Harper & Row, 1983)としています。この場合、大地の豊穣をもたらすものは、女性の生殖能力と動物の生贄であるとしています。先の日本での例に妙に似ていると思いませんか。もちろん古代ギリシャの祭りと日本の山間地の豊作祈願儀礼が、直接、あるいは間接的な影響も考えることはできません。でも共通点があることは、神、狩猟、農耕を考える時、とても興味深い事実ではあります。

ことほどさように「食べる」の獲得は狩猟においても、農耕においても神の領域からのプレゼントと理解されていたようです。だから神への感謝としての、動物の供儀や、神との共食ともいえる直会が祭りとして行われたのでしょう。

ところで狩猟という文化では、野生という神の領域という日常の外側を意識し、その境界の外には不用意に入り込んではいけないと観念されていたと思われます。狩猟とは一時的に野生の領域に足を入れる越境であり、非日常的な祝祭性をともなう活動ではなかったでしょうか。そこにははっきりとした「内と外」、「日常と非日常」があったと思われます。

昨今、野生動物の食害が喧伝されています。また熊などの野生動物が人里に登場して、騒ぎを起こすことも頻発しているようです(かつてはデータがなかったことが、近年のデータ化で顕在化したのかもしれないが)。その原因として狩猟者の高齢化と減少、里山の弱体化、林業の衰退による山林の荒廃などが指摘されています。それらに共通しているのは、私たちの野生に対する認識の形骸化ではないでしょうか。「内と外」の不明確化です。このことは野生の側からも境界が曖昧に感じられる結果になっているのかもしれません。人間の側からは野生に対する畏怖を忘れ、境界認識の曖昧化も進んでいます。

そのような現実を克服するためには、野生を実感することです。獣の肉であるジビエを野生を意識しながら食するのはその一助になるかもしれません。ただジビエも他の食肉と同様にトレーにのせられて、何の説明もなくスーパーなどで数ある肉の一種として販売されたのでは野生を実感することはできないでしょう。野生のイノシシなり鹿の解体、部位ごとの食べ方の説明、焼いて食べるなどの手続きが必要でしょう。その時、私たちは何を食べているのかを深く認識できるのでしょう。そしてこちら側の世界と野生の違い、はっきりとした境界の存在を意識することでしょう。

私たちはそこから、かつての村総出の狩りの祝祭性や「食」の祝祭性を感じ取ることができるかもしれません。