グレコバクトリアとガンダーラ仏

紀元前3世紀から2世紀にかけて、現在のアフガニスタンのあたりにグレコバクトリアという国があった。グレコ(Greco)とはギリシャのことで、グレコバクトリアの都市、例えば現在のタジキスタンの国境近くにあるアイ・ハヌム(グーグルマップ37.166067, 69.409893)は、円形劇場もあるギリシャ式の都市でギリシャの文化が花開いていた。グレコバクトリアはヘレニズム文化の東の極だった。

西のギリシャルネサンス以後、ギリシャ・ローマと連結して語られ、西欧文化の基礎をなしたとされる。しかし現実にはギリシャの文化はイスラムに保存されることによって、西欧に蘇ることができたのだ。ルネサンス期、フィレンツェのポッジョが古いドイツの修道院をまわり、使い回されてきたラテン語写本の中からルクレティウスの『物の本質について』を見出したり、ポンペイの遺跡からローマ時代の文献の断片が見つかったりはした(Stephen Greenblatt『一四一七年その一冊がすべてを変えた』河野純治訳、柏書房、2012より)が、ルネサンスの文芸復興はイスラムの教養抜きでは不可能だったのである。私たちはルネサンス大航海時代産業革命とヨーロッパでの歴史的出来事から歴史を見ることに慣れすぎているのかもしれない。

さて、アフガニスタンをめぐる幾多の戦乱の中、歴史から忘れ去られたかのグレコバクトリアはアジアとどう関わったのだろうか。ここで注目したいのは、グレコバクトリアの地は、紀元前2世紀に北方の騎馬民族に滅ぼされるが、その騎馬民族の中から紀元1世紀にクシャーナ朝が成立することである。そのクシャーナ朝ガンダーラ仏教美術などにみられるように仏教が盛んになるのである。

ところで、『インドの仏 仏教美術の源流』(東京国立博物館、2015)によれば「インド古代初期の仏教寺院は、ストゥーパ(仏塔)を中心につくられ、ブッダ仏陀)は人間の姿では表わされず、法輪や聖樹、足跡などによって存在を暗示するのが習わしであった」とのことである。ブッダは暗示される存在であった。ところがクシャーナ朝ガンダーラで釈迦(ブッダ)に対する信仰が高まり、仏伝(釈迦の誕生から入滅までの各場面)の中、説話の場面で描写された釈迦像がみられるようになる。その後、釈迦(ブッダ)像は礼拝像として独立し、単独の像として崇められるようになり、それがガンダーラの仏像群なのである。ガンダーラの仏をみていると、バクトリアに残されたギリシャの彫像や神像彫刻の影響を見ることができるのではないか。つまり私たちが目にする仏像の原点にギリシャの彫像があるということである。仏像の発生についてはインドのマツゥラーであるとの説もあり断定できないが、ガンダーラ仏がヘレニズムの文化に感化されていることは間違いがないだろう。

アフガニスタンからイランにかけての地は造形上とても興味ふかい場所である。私たちが知る多くの文様や図像が、この地から東西に拡がっていった。例えば奈良国立博物館が所蔵する「パルメット文隅木蓋瓦」(伝和歌山県上野廃寺出土)
http://www.narahaku.go.jp/collection/924-2.html
のパルメット文様はユーラシア大陸の各地で見ることができる。また、ものをくわえた鳥の文様として知られる咋鳥文様は、含綬鳥(がんじゅちょう)として、西アジアでリボン(綬帯)をくわえる鳥の文様が原型である。それが正倉院所蔵「螺鈿紫檀五絃琵琶」の装飾にある花喰鳥(はなくいどり)となり、東京国立博物館所蔵の「蓬莱山蒔絵袈裟箱」
http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=N69
に描かれた松喰鶴になるのであろう。さらに西方ではノアの箱船のオリーブをくわえた鳩の描写となるのである。
私たちはもう少し今は失われたが、東洋美術にも西洋美術にも影響を与えたヘレニズム、さらにアフガニスタンの文化や芸術について興味をもってもいいのではないだろうか。

青島・大島のこと その3

今回は大きくないのに大島と呼称される島についてです。

山形県鶴岡市大岩川字宮名地先 大島

この大島には特に伝説とか、神社あるとかはありません。ごく近くにこの島と同様に海岸から突き出した地先に金比羅岩というのがあり、小さな祠があるが関係はないでしょう。
この岩ともいうべき大島は写真で見てわかる通り、奇岩です。古のひとびとはこの奇怪な岩に特別な思いを寄せたことは確かでしょう。今回の青島・大島のテーマにあてはまる島なのかはわかりませんが、記憶に残る島ではあります。


京都府京丹後市網野町浜詰地先 大島

いまでは、浜詰漁港の護岸の一部となっている、ごく小さな島(岩?)です。小さな祠があります。この大島の対岸の丘の上には大迫古墳群があり、この島を遥拝できる対岸の丘の上に古墳があるとの構造は宮崎県の青島と同一です。また浜詰漁港の奥まった入江は今は打ち捨てられていて、ゴミ捨て場のようになっていますが、大島を望むことができる静かな入江です。もしかしたら水葬地であったかもしれません。
地先の大島に続く海岸を「夕日の浦」といいます。現在では日本海に沈む夕日で有名なリゾート地となっています。
『夫木集(夫木和歌抄)』(延慶3年、1310)「ゆふひの浦」を詠みこんだ歌二首あるそうです。
枕草子』62段 の「里は逢坂(あふさか)の里。ながめの里。寝覚(いざめ)の里。人妻(ひとづま)の里。頼めの里。夕日の里。妻取りの里、人に取られたるにやあらむ、わがまうけたるにやあらむと、をかし。伏見の里。朝顔の里。」にあります。
枕草子』の「夕日の里」とは、京都府京丹後市網野町浜詰地先の大島(青島に通じる)に続く「夕日の浜」のことであるとの説もあります。この「夕日の浜」について、『丹後国竹野郡誌』(1915)には、「夕日の浦は一名「常世浜」ともいった」とあります。つまり船に死者を乗せて常世に送る水葬地であったとのことです。古人のコスモロジーを見る思いがする場所ではありました。


これで大島といいます。


大迫古墳の跡です。大島の東側にあり、西に目を向けると大島を遥拝できます。


浜詰漁港奥の入江です。この小さな浜から大島を望めます。

以上、「青島・大島のこと」でした。

青島・大島のこと その2

前回に続いて、この夏に出かけた青島・大島について画像とコメントです。

石川県穴水町志ヶ浦 青島
この青島は志賀村(志ヶ浦)と新崎村に挟まれた湾の中ほどにあります。昔(いつのことかはわかりません)志ヶ浦と新崎村とのあいだで争いがあり、そのとき死んだ者たちの遺体を青島に埋めたとの伝説があります。地元の漁師さんに聞いたところでは、幽霊や火の玉が出る島と恐れられ、気持ち悪い場所として、誰も島に渡らないそうです。また新崎で護岸を石積みからコンクリートに変える工事の時、石に隠れていた蛇が逃げ出して、海を渡り青島につき、今では大きな蛇となっているとのことでした。つまり死のマイナスのイメージを持った島のようです。昔の争いごとの「たたり」があると信じられているのかもしれません。

なんだか前方後円墳のようです。

新崎の集落です。


福井県小浜市加斗(かど) 蒼島
島には蒼島神社 市杵島姫命(弁財天)が祀られていて、毎年7月15日に祭礼があり、加斗の人々が島に渡ります。加斗集落の人々が深く信仰する島です。またナタオレノキ(シマモクセイ 島木犀)の群生地で、ナタオレノキの日本海側の北限であり、「蒼島暖地性植物群落」として国の天然記念物となっています。ナタオレノキ希少樹木ですが、その群生地なのです。ナタオレノキは硬い木で道具の柄とするので、その名があるのでしょう。島の東側には洞窟があり、かつては遭難者を埋葬したとの話もあるようです。写真ではよくわからないのですが、少し離れた高所(たとえば海岸線に並行に走る高速道路)から加斗の集落ともども蒼島を見ると、集落、海岸、島、海の一体感がわかります。つまり、島を境として、現世と浄土が一体となっていると認識されたのでしょう。加斗集落の入り口には勧請縄がありました。

青島(この場合蒼島)にはどこか共通点があると思いませんか



加斗集落入り口の勧請縄。魔よけです。


京都府伊根町亀島 青島
この青島は20世紀まで(1942年まで)葬送の島でした。対岸の舟小屋で有名な伊根町を形作る湾の入り口にあります。島には蛭子神社が祀られています。
葬送の島としてはっきりと記録の残る唯一の青島です。記録によると、遺体はトモブト二艘をロープできっちりつないだ上に乗せ、青島に運んでいきます。二つの島の間をつなぐ小石まじりの砂浜に浅い穴が掘られており、そこに薪を積んで棺を置き荼毘に付します(現在は1942年に旧海軍が魚雷基地として島の間の砂浜を掘り返して水路としてしまったので、この場所はありません)。要するに、野天の火葬場です。男性がひとりで一晩かかって焼いていたとのことです。遺族は翌朝、骨をひろいに行き、遺骨は本物の蛸壺に納めて砂浜のすぐ東側の墓地に埋葬しました。
伊根町の海岸に連なる舟小屋からはこの青島を望むことができます。もしかしたら、青島を望めるように舟小屋があるのかもしれません。


伊根の舟小屋です。


次回は小さな大島について、です。

青島・大島のこと その1

「アオ」から、その音がつく地名として、青島、大島を考えていきます。

この列島には青島、大島と名付けられた島があります。多くは木が茂って青いからとか、大きいから大島と名付けられているようです。でも、その中で、今でも神社があったり、大きくもないのに大島という島(岩)があります。筒井功『「青」の民俗学』(河出書房新社、2015)の指摘を参考に、この夏、宮城県南三陸町岩手県大船渡市、石川県七尾市穴水町福井県小浜市山形県鶴岡市京都府網野町などに青島・大島を見に出かけました。それぞれの島は形態、植生、信仰、伝説など大変魅力的な島でした。
以下に画像とコメントを書きます。

宮城県南三陸町 椿島 別名青島
島からは木も石も取ってきてはいけない、禁足地です。
全島をおおうタブの巨木(椿島暖地性植物群落) 国の天然記念物
タブの木(椨)はその樹皮が香料となります。 椿島は太平洋側の北限地
島には、椿島神社(戸倉津の宮)があり、旧暦8月15日に島に神官が渡り祭祀があります。
牛頭天王を祭神としています

すぐそばに竹島という小島があり、これも信仰の対象です。青島とはセットなのでしょう。

タブの木が一本だけ本土側にありました。タブの木は大変魅力のある樹木でした。

岩手県大船渡市赤崎町 青島
岩手県大船渡市尾崎岬の付け根の千丸海岸(常世浜か)に向かい合っています。
常世浜は水葬地と考えられています。
赤崎町鳥沢には尾崎神社があり、アイヌが儀式に用いるイナウを神宝としています。つまり日本の基層的文化に関わるということです。瀬川拓郎さんの『アイヌ学入門』(講談社現代新書、2015)はそういう意味ではおもしろかったです。
中央付近の先のとんがった三角形の島が青島です。

水葬地と考えられる千丸海岸と青島

石川県七尾市中島町 青島
こんもりとした円墳のような形をした島です。この形は青島の基本形のように後から思うようになりました。

島を望める海岸には写真のような「宝篋印塔」があり、説明文には以下のように書かれていました。青島には関わらないかもしれませんが、何か特別な場所であったことは確かでしょう。

今日はここまで、また次回に・・・

「アオ」のこと

今年は「アオ」をおっています。この列島では「アオ」「オウ」などの音は、死者の行く場所にかかわるようだからです。
まず基本、「アオ」のことについて

古代以来、死に関係する場所、例えば古墳群、葬礼の場、埋葬地、不幸な死に方をした者の伝承をもつ土地などの地名には「アオ」(青、蒼)のつく地名の多いことが知られています。また現在では死者や葬礼についての伝承が失われていても、なんらかの聖地(例えば神社など)として崇められる場所となっています。「アオ」は「死」と関わりをもつ文字であり、音であるようです。

小学館日本国語大辞典
あお
本来は、黒と白の中間の範囲を示す広い色名で、主に青、緑、藍をさし、時には、黒、白をさした
広辞苑
あお(青)
古代日本語では、固有の色名としては、アカ・クロ・シロ・アオがあるのみで、それは明・暗・顕・漠を原義とする。本来は灰色がかった白色をいうらしい。
白川静『字訓』
あを
色の名、藍の母音交替形。「藍」と「青」は、「明け」と「赤」「栗」と「黒」と同じ形の対応である。色相としては青・藍・緑の系列のものを総称する。古くは黒から白までの中間の暗色をいう。

「アオ」は原義的には何かの色を指す言葉ではなく、「どちらにも属さない、中間の色彩または状態」を意味していた。

ところで『広辞苑』にある、日本固有の色名としてのアカ・クロ・シロ・アオは明・暗・顕・漠を原義とする、とはどういうことでしょう。

アカは「明るい」 太陽の光のもたらす明るさであり、現在の色名の赤、黄など
クロは「暗い」 陽の光のない状態であり、現在の色名では黒、玄
シロは「顕か(あきらか)」
さまざまな事柄が明白になること。隠れていることを明らかにする。
「告白」とか「自白」とかの「白」は、シロの原義から意味を白という色彩ではなく、シロ=顕から読み解くことができる
アオは「漠い(ひろい)」
広辞苑』 ばく(漠)とりとめのないさま
『学研漢和大辞典』
あたりに何もなくてさびしいさま。うつろなむなしさ(寂漠)
うつろではてしない。雲霧が空を覆うようにたれこめたさま
白川静『字統』
音符は莫。莫は艸(草)と艸との間に日(太陽)
が沈んでゆく形で、暮のもとの字
漠然 静かで安らかなこと。また、つかまえ所がないこと
しずか、さびしい、ひろいの意味

辞典の項目から理解できることは、アオ=漠は、漠としてつかみどころがなく、曖昧でとりとめがなく、霧がかかっているように、向こう側が明らかでなく、仄暗く、こちら側と向こう側の不明瞭で中間的な場所、あるいは空間の状態を指すとのことです。

青のつく地名
「アオ」のつく地名は、古墳群や、葬礼地、特殊な死者の埋葬地に見られる。(青木、青墓、青柳など)、また海上彼方の彼岸への中間地として、聖地となっている地先の島名が青島(蒼島、粟島、淡島、大島など)であることから、アオ(古い表記ではアヲ)とは元来、「あの世とこの世とのあいだ、境、中間」を指していたのではないでしょうか。白川さんの「莫」の「艸(草)と艸との間に日(太陽)が沈んでゆく形」、「暮」の元字というのも注目されます。日が沈んでいくときは夕暮れ時であり、古来、境界の時間として人々に記憶されているからです。

筒井功『「青」の民俗学河出書房新社、2015
「仲松弥秀『神と村』(梟社、1990)に「沖縄には「奥武(おう)」と名のついた地先の小島が七つほど見出される。そのいずれもが無人の小島で、そこは古代の葬所となっていたと推定される島、あるいはニライ・カナイの神が来臨される島と思われてきたところである。・・・沖縄では、人が死ぬことを「オウにいく」と表現する地域がある。」仲松は「奥武」が「青」の転訛と考えていた。」

岐阜県大垣市青墓
周囲に古墳群があります。つまり、古くからの聖所です。平安時代末期には、傀儡、遊女など非定住民(流れ者)の溜まり場でした。平治の乱の後、東国に逃れた源義朝の嫡男朝長が義朝に切り捨てられ場所です。また説経節小栗判官』では、小栗判官が、骨と皮だけになって変わり果て、土車に乗せられ、熊野峯の湯の壺湯を目指している時、それとは知らない照手姫と出会うという主要な舞台のひとつです。

次回は青島と大島について

7月25日の日本の装飾美術ゼミでは「食」を考えます

食とは ーもう一つの日本の食文化についてー

今日、私たちは豚肉や牛肉をスーパーでプラスチック製のトレーに盛られた、料理しやすいように加工されたものを購入して料理し、食しています。

トレーにのせられラップでカバーされた切り身の食肉を、私たちはまるで工業製品のように工場で機械がつくりだしたもののように認識しているのではないでしょうか。元は豚なり牛なりの生命を宿したいきものであり、そのなれの果てだとは思い至ることはあまりありません。しかし肉を食べるということは、確実に生命の殺戮(屠殺)の結果です。

「食べる」とはなんでしょう。現代では「食べる」とは食欲を満たすなど生理的な現象として捉えられています。また食事時の感謝も「お米を作った農家の人に感謝しなさい」とは理解されても「肉になってくれた豚や牛に感謝しなさい」とはいいません。現代の日常化した食事は「食べる」本来の感動を欠落させているように思われます。人々にとって「食べる」は必死のふるまいの結果でした。人類は農耕を始める以前、懸命に山野に獣を追いかけ、幸運にも獲物を捕まえると解体してその肉を皆で分け与えて食べていたのです。稲作などの農耕の時代になっても「食べる」は撒種から収穫まで、神にすがりながらの生活でした。

アイヌイヨマンテでは、神の使いである熊を屠り、神の贈り物である肉に感謝を込めて頂き、神の化身である熊をふたたびあの世に送る祭りです。獲物の肉は神からの賜物であり、食することは神への感謝であることをシンボリックに示した祭りと理解できます。ところでイヨマンテの原型は日本列島全体にあり、もともとはイノシシを矢で射って殺したのちに祭壇に捧げ、直会として食したのち「あの世」に送る祭りであったと考えられています。アイヌの人々も元はウリ坊を本州から輸入し、飼育した後に、現在のイヨマンテと同じようにあの世に送っていたとされます。その後本州以南でイノシシの祭りが少なくなり、その代わりとして熊を神の使いとしたとのことです。(瀬川拓郎『アイヌ学入門』講談社現代新書、2015)

イヨマンテにしても、イノシシの祭りにしても狩猟による獲物の獲得とそこから得られる肉という神からの直接的な賜物に対する感謝があります。日本列島における原始的な狩猟の衰退とともに、このような神への直接的な感謝は衰退したようです。

本州以南では農耕(この場合、稲作だけではなく焼畑農耕もふくむ)の浸透や肉食の禁忌によって狩猟が廃れましたが、農耕でも狩猟と同様に、収穫は神がもたらすものであるとの観念は引き継がれたようです。そのなかでは鹿やイノシシやその代替物を供儀することが行われていたようです。

佐々木高明氏は『稲作以前』(NHKブックス、1971、『新版 稲作以前』として2014年に再度出版された)で奥三河における早川孝太郎の戦前の調査を引いて、北設楽郡振草村(現東栄町)では二月初午の日に、稲荷社の前で青杉の葉で実物大の鹿を作り、これを神官が弓矢で射ったのち、あらかじめ鹿の腹の中に入れてある、小豆と米を入れた苞をサゴ(鹿の胎児)だといってとり出します。村人はこのサゴからとり出した米に境内の土をまぜ、あらたな包みをつくり、それを家に持ち帰って、エベス棚に供えるとのことです。つまり神の化身である鹿が胎児を生み出す力が、農耕の豊穣をもたらすと観念されているのです。

播磨国風土記』讃容郡の項に「津日女命、生ける鹿を捕り臥せ、其の腹を割きて、稲を其の血に種きたまひき。仍りて一夜の間に苗生ふれば、即ち取りて植ゑしめたまふ。」とあります。おそらく鹿や猪などの野獣を捕え、それを犠牲にして、その血を種モミや大地に注ぎ、稲の豊作を祈った儀礼の存在を背景にしているとのことです。(『稲作以前』前掲書)

千葉徳爾さんの『狩猟伝承研究』(風間書房、1969)には、宮崎県西都市(旧東米良村)の銀鏡神社の祭りの中でも狩猟行事としての特徴と臼や杵を用いる農耕儀礼的な要素が結合しており、狩猟と農耕の豊穣を願い神事が、結びついているとしています。また、東米良の山村では旧正月に各地区が合同して、モヤイガリという共同狩猟に出る慣行もありました。同じような儀礼的な共同狩猟は、九州、奥三河の山村だけではなく、四国・山陰・紀伊・奥羽の各地にも、その痕跡を留めているとしています。千葉さんはそれらのことから「春のはじめもしくは秋の終り、農耕の開始もしくは終了のときに当って、村落共同体な集団が全員で狩猟を行い、その獲物で神を祭る儀礼が古くは全国にあったらしい」と推定し、さらに「春の農耕にさきがけて、村落の全員の参加する儀礼的な狩猟が東南アジアのものに対比できるとするならば、それは狩猟民族の狩猟生産を目的とする行為というよりは、農耕民がその収穫をより豊かにするために呪術的行為として行なう動物犠牲の祭りであると考える方が適切ではあるまいか」という意見を述べています。このことは修験者が祭礼で儀礼的に弓矢を放つこととか、山の神に豊作を祈願することにも通じているのかもしれません。

ところで、古代ギリシャのテスモポリア祭についてBarbara G. Walkerは「デーメーテール・テスモポロスDemeter thesmophorosを祝う女だけの祭り。女たちは種ムギに生命を与えるために、自らの経血を混ぜ合わせた。ブタを生贄として捧げ、果皮、ヘビ、女陰の形に似せて作った菓子を持って練り歩いた。3日目に、犠牲に供された者たちは、大地-子宮から姿を現し、「素晴らしき誕生」を迎えた。」(The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets , Harper & Row, 1983)としています。この場合、大地の豊穣をもたらすものは、女性の生殖能力と動物の生贄であるとしています。先の日本での例に妙に似ていると思いませんか。もちろん古代ギリシャの祭りと日本の山間地の豊作祈願儀礼が、直接、あるいは間接的な影響も考えることはできません。でも共通点があることは、神、狩猟、農耕を考える時、とても興味深い事実ではあります。

ことほどさように「食べる」の獲得は狩猟においても、農耕においても神の領域からのプレゼントと理解されていたようです。だから神への感謝としての、動物の供儀や、神との共食ともいえる直会が祭りとして行われたのでしょう。

ところで狩猟という文化では、野生という神の領域という日常の外側を意識し、その境界の外には不用意に入り込んではいけないと観念されていたと思われます。狩猟とは一時的に野生の領域に足を入れる越境であり、非日常的な祝祭性をともなう活動ではなかったでしょうか。そこにははっきりとした「内と外」、「日常と非日常」があったと思われます。

昨今、野生動物の食害が喧伝されています。また熊などの野生動物が人里に登場して、騒ぎを起こすことも頻発しているようです(かつてはデータがなかったことが、近年のデータ化で顕在化したのかもしれないが)。その原因として狩猟者の高齢化と減少、里山の弱体化、林業の衰退による山林の荒廃などが指摘されています。それらに共通しているのは、私たちの野生に対する認識の形骸化ではないでしょうか。「内と外」の不明確化です。このことは野生の側からも境界が曖昧に感じられる結果になっているのかもしれません。人間の側からは野生に対する畏怖を忘れ、境界認識の曖昧化も進んでいます。

そのような現実を克服するためには、野生を実感することです。獣の肉であるジビエを野生を意識しながら食するのはその一助になるかもしれません。ただジビエも他の食肉と同様にトレーにのせられて、何の説明もなくスーパーなどで数ある肉の一種として販売されたのでは野生を実感することはできないでしょう。野生のイノシシなり鹿の解体、部位ごとの食べ方の説明、焼いて食べるなどの手続きが必要でしょう。その時、私たちは何を食べているのかを深く認識できるのでしょう。そしてこちら側の世界と野生の違い、はっきりとした境界の存在を意識することでしょう。

私たちはそこから、かつての村総出の狩りの祝祭性や「食」の祝祭性を感じ取ることができるかもしれません。