5/30の日本の装飾美術ゼミでは「わび・さび」を考えます

最近、考えていることは「青」です。筒井功さんの『「青」の民俗学』(河出書房新社、2015)を読みました。この本は地名の「青」を追って、「青」のつく地名の多くが葬送や墓地に関わると指摘しています。岐阜県の青墓、宮崎県の青島、京都府伊根の青島、などなどです。
青(アオ)
小学館の『日本国語大辞典』では
本来は、黒と白の中間の範囲を示す広い色名で、主に青、緑、藍をさし、時には、黒、白をさした
広辞苑』では
古代日本語では、固有の色名としては、アカ・クロ・シロ・アオがあるのみで、それは明・暗・顕・漠を原義とする。本来は灰色がかった白色をいうらしい
と、とても興味深いことが書いて有ります。『広辞苑』ではアオは漠を原義としています。漠とは
また『広辞苑
ばく(漠)
とりとめのないさま
学研『漢和大辞典』
あたりに何もなくてさびしいさま。うつろなむなしさ(寂漠)
うつろではてしないさま。雲・霧が空を覆うようにたれこめたさま。
白川静『常用字解』
音符は莫。莫は艸(草)と艸との間に日(太陽)が沈んでゆく形で、暮のもとの字である。
漠然 静かで安らかなこと。また、つかまえどころがないこと
しずか、さびしい、ひろいの意味に用いる
つまり、これらからは、アオ、漠が曖昧で取り止めがなく、さびしいさまを意味していること。色彩としても白黒はっきりしない、青っぽくもあり、灰色でもあるとのことです。中間的で境界のはっきりしない色彩や場所を「青」というのではないでしょうか。それは他のアカ・クロ・シロがそれぞれ原義とする明・暗・顕との比較からも言えるでしょう。白川さんの「莫は艸(草)と艸との間に日(太陽)が沈んでゆく形で、暮のもとの字である。」も興味深い指摘です。

ところで、「わび・さび」とは不完全で古びた(さびた)状態のことです。そこには枯れた漠々とした場所です。この世とあの世の中間です。秋草の枯野の向こうに浄土が有ります。秋草の枯野は「わび・さび」極地です。で、思い切って言ってしまうと、「青」は「わび・さび」に通じていないだろうかということです。

前出の『「青」の民俗学』から青島(「大島」「粟島」「淡島」とされることもあります)を取り上げ、「青島」リストにさらに書き加えて、あげてみます。
地名をあげてありますので、googleの地図とかをみながら読むと面白いです。

岩手県大船渡市赤崎町 青島
波打ちぎわに洞穴があいている
岩手県大船渡市尾崎岬の付け根あたり千丸海岸(常世浜か)に向かい合っている
常世浜は水葬地と考えられる
赤崎町鳥沢 尾崎神社 延熹式内の理訓許段(りくこた リクンコタンか)神社に比定される古社で、アイヌが儀式に用いるイナウを神宝としている
宮城県南三陸町戸倉 青島(椿島とも)
島からは木も石も取ってきてはいけない
全島をおおうタブの巨木(椿島暖地性植物群落) 国の天然記念物
宮城県塩釜市浦戸寒風沢(さぶさわ) 青島
松島湾南東の寒風沢島の東側
新潟県佐渡市米郷 青島
最高所で8メートルの岩礁ともいうべきもの
石川県穴水町志ヶ浦 青島
昔、志賀村(志ヶ浦)と、その東側の新崎村とのあいだで争いがあり、そのとき死んだ者たちの遺体を埋めたため、幽霊が出るという伝説
石川県七尾市中島町 青島
こんもりした円墳のような形
福井県小浜市加斗(かど) 蒼島
蒼島神社 市杵島姫命(弁財天)
ナタオレノキの日本海側の北限、「蒼島暖地性植物群落」 国の天然記念物
東側に洞窟
京都府伊根町亀島 青島
蛭子神社
20世紀まで葬送の島
遺体はトモブト二艘をロープできっちりつないだ上に乗せ、青島に運んでいく
葬礼の使者は二人でという風習の変形か
   二つの島の間をつなぐ小石まじりの砂浜に浅い穴が掘られており、そこに薪を積んで棺を置き荼毘に付す。要するに、野天の火葬場である。
   男性がひとりで一晩かかって焼いていた。遺族は翌朝、骨をひろいに行き、遺骨は本物の蛸壺に納めて砂浜のすぐ東側の墓地に埋葬した
   青島での火葬は昭和17年(1942)10月にやんでしまう。国家から強制収用され、魚雷艇の基地とされたため
鳥取県米子市彦名町 粟島 粟島神社
出雲風土記』意宇郡にある
「粟島。椎・松・多年木(あはぎ)・宇竹(おほたけ)・真前(まさき)等の葛有り。」
現在は干拓され、陸地に取り込まれている
島根県松江市美保関町雲津 青島
島に近い雲津集落崎の洞窟「蜘戸の岩屋」には、死者が出た家の人々や親族らが葬式のあとやってきて、岩陰の壁に「南無阿弥陀仏」と書いた布製の名号札を貼り付ける習俗
洞窟の手前に石ころだらけの浜がある。地元の人は、そこを「サイノカワラ」と呼んでいる。
サイはサエ(境)のこと 柳田國男「死者の去り進む地」
カワラはゴウラの語に由来し、「小石原」(箱根の「強羅」もこれ)をさす。したがって流れの岸を意味するカワラ(河原)とは別であって、柳田は「磧(かわら)」の文字を宛てている。
この「賽の河原」は死者を常世に送りだす「常世浜」ではないだろうか
島根県松江市美保関町七類字惣津 青島
出雲風土記』島根郡に粟島とある
「粟島。周り二百八十歩、高さ一十丈。松・芋(いへついも)・茅(ち)・都波(つは)有り。」
惣津の地先の島
無縁墓地があり、漂着屍体を葬っていた
南側の海際に洞窟 古い時代の葬所か
岡山県瀬戸内市牛窓町牛窓 青島
前島の東側に位置する やや大きい
単に「青っぽい島」の意か
徳島県阿南市豊益町 青島
ヒョウタン型の島で淡島とも呼び、対岸には淡島神社がある
ヒョウタン型ということは前方後円墳を思わせる
愛媛県大洲市長浜町青島 青島
寛永16年(1639)までは無人島 最初の移住者は兵庫県赤穂の漁民
地元では禁足地か
宮崎市青島 青島
古くは淡島 青島神社
昔から霊域とされ、牛馬の渡島や発砲を厳禁
ビロウを中心とする「青島亜熱帯植物群落」は、国の天然記念物に指定
対岸の青島を望みやすい丘に円墳五基(内三基は消失)からなる青島古墳群がある
青島を遥拝する位置に、古墳が築造された
長崎県松浦市星鹿(ほしか)町青島 青島
伊万里湾の口をふさぐように位置 古くから人が住んでいた
長崎県壱岐市芦辺町 青島
内海湾の東の口を半分近くふさいでいる
青島神社

皆さんの近くに青のつく地名はありませんか。探してみてはいかがでしょうか。

2/28の日本の装飾美術ゼミのレジメです。

2月28日の日本の装飾美術ゼミでは黒川能の神事と「ヤンキー人類学」について考えます。

井上章一さんは最新刊「現代の建築家」(GA、2014)でモダニズム建築に疑問のまなざしを向けています。また同様に現代芸術についても見ているようです。松宮秀治さんは「ミュージアムの思想」(白水社、2003)「芸術崇拝の思想」(白水社、2008)で西欧近代と芸術の関係を解き明かしています。今回はそんなことを意識しながらゼミを進められたらと考えています。

以下のレジメは、私が気になった文献からランダムに引用したものです。したがって論理的な一貫性はありません。ゼミのだしに使えればと思います。

日本の装飾美術ゼミ 第6回
泉 滋三郎
鞆の浦ミュージアム監修『ヤンキー人類学 突破者たちの「アート」と表現』2014 から

櫛野展正・津口在五「諸行無常のカーニバル」

北澤憲昭が『眼の神殿』(美術出版社、1989)は、本来「美術」とは明治時代にドイツから輸入された翻訳概念であり、必然的に西洋を意識したものとして生み出された。「何が美術であるか」を規定するのは社会的・歴史的要因であり、「もの」自体が美術であることを主張しているわけではないという意味においては、美術はひとつの「制度」である、とした。
では制度としての美術、北澤憲昭によれば
『美術』という翻訳概念によって在来の絵画や彫刻などの製作技術が統合され、また美術のあり方が博覧会、博物館、学校などを通じて体系化され、規範化され、一般化されることで、美術と非美術の境界が設定され、さらに、かかる規範への適応如何が制作物への評価を決し、さらには、そのような規範が公認され、自発的に遵守され、反復され、伝承され、起源が忘却され、ついには規範の内面化が行われるといった事態=様態。
近代日本において、西洋の文化を受容する際、このような過程を通じて「美術」や「表現」は社会制度の中に定着していった。

椹木野衣は「同じ場所において同じ問題を多様に反復しているだけ」となった現状の状況下における日本を「悪しき場所」とし、その中で奇妙な堂々巡りを続ける悪循環を「閉じられた円環」と呼んでいる。
東日本大震災以後、この円環の外を探るべく、こうした近代社会の功罪について根底から再考する

西洋社会から移植された「美術」は、西洋で生まれた特定の価値体系にすぎないと言えるものであるにもかかわらず、受容される段階で非日常的なものとして神格化される
既存の日常的ないし前近代的な価値観は俗悪なものとして「美術」の外に放擲された

福住廉は『今日の限界芸術』(BankART1929, 2008)の中で、必要なのは、近代というシステムのなかで、したがって現代美術という枠組みのなかで、「別の美術」を捜し求めることではなく、文字通り美術館の外で、美術館には見向きもされない無数の「巷」の表現のなかから「別のリアリティ」を模索することである。それが「美術」であるかないかはどうでもよい。

アール・ブリュットとは
一般に「伝統や流行などに左右されず、自身の内側から湧き上がる衝動のまま表現した芸術」のことを指す。
デビュッフェ「文化的な芸術よりも生の芸術を」
アール・ブリュット(Art Brut)とは、芸術的文化から全く影響を受けていない人たちによって作られる創造物を意味する。知的な芸術とは違って、そのような作品においては模倣がほとんど見られない。それらの作家たちは全て(テーマ・使用する素材の選択・イメージ操作の作法・リズム・画風など)を、自らの存在そのものから引き出すのであり、古典的あるいは同時代の芸術によくある表現から引き出すのではない。ここで私たちは、完全に純粋で原理的な芸術的達成に出会うのである。それはあらゆる点において完全に創造者自身の衝動から生み出されるものだ。それゆえ、そのような創造物は、そこに宿る創造力の存在をはっきりと示すような芸術であり、文化的な芸術によくみられるカメレオンやサルのような模倣とは全く別のものなのである。


松宮秀治『ミュージアムの思想』白水社、2003
254p
梅棹忠夫『メディアとしての博物館』のなかの「現代の蔵としての博物館」という論文において、ミュージアムは死のメタファーとして語られている。
「いまもし、現代の博物館を一種の倉庫とかんがえ、その活動を一種の産業とみるならば、それは現代社会における倉庫業よりは、むしろ古代エジプトにおける死体処理産業あるいは墓地産業のほうにちかい。
日常の場における経済活動を、現世産業とかんがえれば、ミイラづくりや博物館は、彼岸において成立する彼岸産業である。日常生活の場を、この世における顕界とかんがえれば、ピラミッドや博物館は、いわば幽界に属する。博物館の仕事は幽界産業である。これは、一種不気味なる産業である。」
すぐれた洞察者たちがこのようにミュージアムを死との関連において論じている。また、いまや死語化しつつあるが、「博物館行き」といえば、ある対象物が現世の役割を終え、現実的に役に立たなくなったもの、つまり現世的な埋葬の比喩的な表現であることも思い起こされる。なぜこのようにミュージアムは死のメタファーで語られることが多いのか。やはりその本質的な部分に死のメタファーを呼び起こす何ものかがあるにちがいない。それは何なのか。
ミュージアムが死のメタファーで語られ、死の連想を呼び起こすのは、おそらくそれが近代の新しい「死者礼拝」の場であることが原因であるのではないかということである。ミュージアムは近代の新しい「宗教」であり、新しい「神殿」である。それは死者たちによって生きているものたちを支配する装置であるといえる。「芸術」「歴史」「文化」の観念系につらなるすべてのミュージアムは、すでに死せるものたちを礼拝し、その礼拝の儀式を通じて生きているものたちすべての行動規範を創り出す。いうなれば歴史の管理装置である。このようなことから古代文明の支配者たちの「墳墓」が、その死者礼拝を通じて生者たちを支配していたことを連想させるがゆえに、ミュージアムは容易に「墳墓」の死者礼拝と結びつくのである。

264p
神話世界、宗教世界にあっては人間と自然の間に領界区分はなかった。人間は自然の一部であるというより、自然そのものであった。人間が神となり支配者となることによって、人間自身もまた自然と対立する客体、つまり「もの」という対象物となってしまった。人間の自然に対する支配力が増大すればするほど、人間は外界としての自然を破壊するだけではなく、自己自身の内なる自然をも破壊することになってしまった。それが「疎外」ということであるが、疎外とは、神であり支配者であるはずの人間自身をも「もの」化させられることを意味する。そして彼らは「見せ物」として、先進諸国やユネスコの「ミュージアム法」が規定する「さまざまな手段によって、保存、研究、評定し、何よりもまず公衆のレクリエーションと啓蒙のために展示」されることになる。

267p
西欧におけるミュージアムの思想とは、「科学」と「技術」という観念系の価値によって自然を支配し、「歴史」「文化」「芸術」という観念系の価値においては精神を支配する、つまり西欧的な価値の共有を強制する思想である。そしてこれらの諸観念の価値を育てたのは西欧近代の「市民」社会のイデオロギーであるが、このイデオロギーは政治的には「民主主義」と「自由主義」を、経済的には自由競争を原則とする「資本主義」の思想を分かちがたく結合しているのである。
ミュージアム」は、静寂が支配し、教養人に魂の安らぎを与え、信仰心にも似た美的畏敬の念を与える芸術作品だけによって満たされている空間ではない。「ミュージアム」とはたとえそれがほんの一部にすぎない「美術館」であっても、その見せかけの静力学的背後にとてつもない衝動力を隠し持った動力学的な装置である。「欲望」の解放を原理とする西欧のミュージアムの思想を、いったん受け入れてしまえば、後発国は西欧以上の「欲望」の解放を推し進めなくてはならない。この「欲望」とは政治的用語に置き換えれば、自由主義あるいは民主主義の根底を支える情念のことであり、経済学的にいえば資本主義経済を支える自由競争の情念である。ミュージアムの思想の文脈でいえば、伝統的な国家宗教の「聖域」を残しておかないという意志である。もし、どの後発国であってもこの思想の中途半端な受け入れ方を続けていれば、「ミュージアムの思想」の側からか、あるいは「伝統的な聖性」(国家宗教)側のいずれかから攻撃されることになるであろう。

松宮秀治『芸術崇拝の思想』白水社、2008年
68p
最近の日本語の用法では、「他者」という言葉が自分以外の存在、つまり他人とか自分と異質の存在者という誤った使用法で使われているが、「他者」とはドイツ語ではdas Andere(ダス・アンデレ)であって、der Andere(デア・アンデレ)(他人)ではない。他者とは「もうひとりの自分」としての「内なる自分」、つまり自分に対して定言的命令と当為を命ずる存在、すなわち自己の内なる神のことである。
西欧哲学の用語としての「他者」とはヘーゲルプラトンの用語を復活させたもので、「自」と「他」を区分するための概念ではない。さらに現代哲学がほとんど「他者」を絶対の他者としての「神」と同じ意味に使うのは、自己という有限の存在に「無限のもの」「絶対的なもの」「超越的なもの」をとり込んでいくための用語なのである。

96p
わたしはながらく「進歩」を標榜する啓蒙の哲学者たちが、「善良な未開人」とか「無垢なる自然の状態」とか、「健全なる古代人」といった著作を数多く書き残しているのをどのように解釈すべきか迷ってきた。たとえばモンテスキューの『ペルシャ人の手紙』とかヴォルテールの『ヒューロン人』とか、ルソーの『学問芸術論』の始原状態の賛美とは一種の方法論的懐疑で、ヨーロッパの現状批判、つまり時代批判の流行の手法とのみ考えてきたが、これがそのような消極的なものではなく、もっと積極的にリセットの思想として新たな出発点の整備であることがわかった。カントの『永久平和論』というユートピア論のもつ意味も、のちの青臭い書生論的な平和論者をよろこばせる著作ではないと理解されるべきものである。

ヨーロッパにおける「芸術」概念の成立と近代国家の政教分離の関係には、啓蒙主義の政治思想がかかわってきた。

97p
「芸術」というものをできるだけ相対的な視点から見ていくためには、芸術の見方そのものをヨーロッパ人とは別な視点から見ていき、明治時代以後日本にとり入れられてきた芸術研究そのものをも「リセット」する必要があると考える。ということは西欧における専門化した芸術研究とそれを忠実に模倣している日本における専門細分化された芸術研究も同様に「リセット」されて更地化されるべきである。あまりにも専門細分化された芸術研究は、「芸術」そのものを死滅させる有害バクテリアの増殖のように、いうなれば「芸術」の周辺で腐臭を漂わせ、人をして「芸術」から遠ざけさせる。したがって専門細分化された芸術研究とは無縁の、可能なかぎり広い視野から芸術へのアプローチの方法が模索されなくてはならない。

100p
カントの『啓蒙とは何か』のあの有名な冒頭部の文章を引用してみよう。
啓蒙とは、人間がみずからの原因でまねいてしまった未成年状態を脱却することである。未成年とは、他の指導がなければ自己の悟性を使用しえない状態である。またこのような未成年状態にあることは人間自身に責めがある、というのは、未成年の原因が悟性の欠如にあるのではなく、他の指導がなくてもあえて悟性を使用する決意と勇気を欠くところに存在するからである。だから『あえて賢こかれ』、『自己みずからの悟性を使用する勇気をもて』――これが啓蒙の標語である。
最もよく引用されるされ方は、たとえば「啓蒙とは、人間がみずからの原因でまねいてしまった未成年状態を脱却することである。『あえて賢こかれ』――これが啓蒙の標語である」というものである。こうすればたしかに定義らしく見える。そうするとカントは同時代の人間が大半いまだ未成年状態にあって、つまり啓蒙されることを必要とする段階にとどまっているゆえに、人びとの意思構造を改革し、教育や教化によって人びとを蒙昧な状態から救出しなければならない、という読み方に変えられるのである。
しかしカントは人びとが蒙昧な状態にとどまっていると思っていない。これは啓蒙という漢字のイメージによって増幅された誤解である。カントは人びとはすでに「賢い」存在であり、「悟性」を十分に備えている存在であるとしている。ただ時代と歴史の制約のなかで、伝統的な「権威主義」から脱却する勇気が欠如しているだけであるというのである。だから彼は「自己みずから悟性を使用する勇気をもて」というのである。
自分みずからの、すでに十分に備わっている悟性を使用する勇気をもつということは、カントの思想の文脈でいえば、「真・善・美」以外のいかなる権威にも「服従するな」ということである。もうすこし引用を続けてみよう、するとカントのいう「啓蒙」がなんであるか見えてくるはずである。
ところでこのような啓蒙を成就するに必要なものはまったくの自由(フライハイト)にほかならない。なかんずく、およそ自由と称せられるもののうちで最も無害なもの、すなわちあらゆる事柄について理性を公的に使用する自由である。ところがわたしはあらゆる方面から『論議するな!』と叫ぶ声を聞く。将校はいう、『議論するな、教練せよ』。財務官はいう、『論議するな、納税せよ』。聖職者はいう、『論議するな、信ぜよ!』。ひとりの世界無二の君主はいう、『いくらでもまた何事についても意のままに論議せよ、しかし服従せよ!』もちろんこの自由には、一般に制限が付せられている。それならばどんな制限が啓蒙を妨げ、またどんな制限ならば啓蒙を妨げないで、むしろこれをよく促進するであろうか。これに対してわたしは答えよう。――理性を公的に使用することは、いかなるときでも自由でなければならない。このような使用のみが人類のうちに啓蒙を成就するのである。
カントの『啓蒙主義とは何か』は決して「啓蒙」の概念規定や定義づけをめざすものではなく、「王権」と「宗教」の伝統主義的な権威を破壊するための闘争目標を求めるものだったのである。そしてその闘争目標とは「理性の公的使用のための自由の獲得」に置かれる。宗教や政治権力はつねに理性を使用する自由に対して恐怖と嫌悪感をいだく。なぜなら「理性」とはつねに人間の内在的な判断と批判力から導き出され、他律的でない価値規準をみずから創り出すからである。つまり宗教と政治権力は神秘的な威厳を利用し、人間を他律的に拘束することで、最も有効に作用するものだからである。したがって宗教と政治権力はつねに「理性」を微睡(まどろ)ませる、麻痺させようとする。



152p
ヨーロッパの伝統的な芸術観においては、「美」は神によってすでに創り出されていたものであるがゆえに、人間の芸術制作活動は単なる神の被造物をなぞるだけのことであるというキリスト教の考え方が不動の位置を占めていたのであった。またギリシャ哲学が主張するように、「イデア」の模倣である自然、さらに自然の再模倣である芸術活動は「創造」という概念の範疇に組み入れることができるはずもなく、さらに人間の「自由」なる活動という思想にとり込むこともできなかった。
カントによって真と善が、人間の「理性」と「悟性」のなかにその成立基盤が見出されたように、「美」も人間の「感性」のなかにその基盤が求められるようになった。「感性」が最も自己の領域を拡大できるのは、「芸術」活動のなかにおいてであり、芸術が最も純粋な美を創り出しうるのは、「自由な遊び」のなかにおいてである。「感性」を自由な遊びのなかに解き放しうる芸術家は「天才」と呼ばれうる。天才とは神の能力を人間のなかにもち込み、神に代わる「新しい価値」を「創造」しうる者をいうことになる。このようにして西欧の近代は「芸術」活動のなかに「創造」を発見したのである。

1/24日本の装飾美術ゼミ第5回 霜月祭で思ったこと「遠い山なみ」です

遠い山なみ

昨年12月、長野県飯田市上村遠山郷霜月祭を見た。2001年、2010年に続いて三回目である。一回目の時、私はその不思議なエネルギー感を全身に浴び、ただただ驚くばかりであった。その衝撃は、それまでの自分の調査や研究が、果たして意味のあるものなのかどうか疑問を持たざる得なくなるくらいのものであった。なぜ霜月祭を見に行ったのか。それは民俗学的興味というよりは、その頃研究していた茶の湯と道具との関わりからであった。
茶の湯は日本の文化の真髄とされる。その「幽玄」と「わびさび」が和歌などとともに日本文化の特徴づけていると説明されている。しかし茶の湯には、もっと日本の基層的な文化がその基本にあるのではないかと考えていた。茶室、道具、とりわけ茶碗には、古くからの呪術的な意味合いがあるのではないか、陰陽五行説などの自然哲学が見て取れるのではないか、と思っていた。それは今日、茶礼の振る舞いが礼儀作法で説明され、道具の形態や色彩、さらにはその扱いが、近代合理主義の機能性で説明されることへの疑いから発した研究であった。茶釜で湯を立てることも、ただ単にお茶のための湯を沸かすだけではないと、そこには火と水に関わる呪術があると思われた。炉は四角、茶釜(多くの場合)と丸であり、それだけで陰陽となる。炉でおこされる火と茶釜の水もまた陰陽をなす。つまり炉と茶釜の織りなす炉辺はそれだけで小宇宙を形成しているのではないかと考えた。そんな考察を進める中、多くの神社で神事として執り行われる「湯立神事」のことが気になっていた。
湯立神事」とは神社で、正月、祭、神楽に際して、大釜に湯を沸かし、その湯を榊などの葉で掬い、祭礼や神楽の参加者にふりかける神事である。この際、湯は聖性を帯びており、湯を浴びることが神さまのご利益にあずかれるということである。「湯立神事」において釜で熱した湯が聖性を帯びるということは、呪術性を帯びていると考えられる茶の湯の中で、湯の沸く音を「松風」といって、その神秘性を愛でたりすることを含めて、茶釜の湯もまた聖性を持つものではなかっただろうか。さらに茶釜の湯の聖性は、茶の湯が茶席という一座を建立して、座のものたちが茶という聖性を、ともに取り込む儀礼であるとの考えに合致しているのではないかと思ったのである。そんな茶の湯研究の中での参考のために、一度「湯立神事」を見てみようと考えていたのである。さらに2001夏に公開された、スタジオジブリの「千と千尋の神隠し」における「油屋」のお風呂の原型が遠山郷霜月祭で使われる炉と釜であることを知り、12月に行われる霜月祭を見に出かけることとしたのである。

2001年に行ったのは長野県下伊那郡上村(現在は飯田市)上町地区にある正八幡宮であった。午後7時くらいから参加したのだが、あまり作りの良くない安普請の祭会場は人もまばらで、事情を知らないものとしては、拍子抜けすると同時に、こんなところに来てしまって良かったのだろうかと不安になるような雰囲気であった。場の中央には仮設の土製のカマドが二つ据えられており、時折マキがくべられ、マキがぱちぱちと弾け、燃える火が明るい朱色となっていた。カマドの周囲には神様をあらわす小ぶりな御幣が立てかけられ、カマドの上には鉄製の直径1メートルほどの湯釜が据えられ、湯がたぎっていた。確かに祭は始まっているようだったが、ただ義務的に祭の日程をこなしているといった雰囲気が流れていた。そのやや寂しげに流れる時間の中にいると、これが霜月祭なのだろうかと、出かけてきたことを悔いる気分が生じていた。
しかし時が経つにつれて、参加者が増えていき、日付が変わる頃には祭会場が人であふれかえるようになっていった。そのうち、人々の喧騒と熱気、滞りがちに進行するスケジュール、やや不安なリズムを刻む太鼓の音、ヒョロヒョロとした笛の音、ウロウロとぎこちなく歩む仮面をした神々、鬼、怨霊などが、渾然一体のカオスとなって場を埋め尽くしていった。夜の終わりころには、鬼が祭場を暴れまわり、人々は鬼がさらに暴れるようにと、さかんに鬼にけしかける。さらに釜の湯が天狗面の若者によって、素手で激しく弾かれ、祭の参加者は湯を浴びることとなる。朝になると全てを統べる「天伯」という神が天地と四方を鎮めるのであった。その頃には、寝不足と祭会場に居続けた疲労感から頭がボーとし、うまく状況に適応していない自分がいるのだった。夜は開け、人々はとぼとぼと家路につくのだった。

私は霜月祭の混沌の中に、未だ知られざる美術の可能性を見た思いがしたのであった。例えば今に至る「境界」への関心も、この経験がきっかけであった。一夜の祭の激しい混沌が、人々の恨みや汚れを払い、夜明けとともに世界は一度清められ、再生するのであるが、その夜明けが時間としての「境界」にあたるではないかと思ったからである。考えてみれば、そのように二つの事象が際立ち、その間に境界が見て取ることは、時間、場所などに色々とあるのではないかと思うようになった。また、この経験から、現代の美術やデザインの新しい地平は、美術館やギャラリーから開かれるのではなく、辺鄙じゃ山奥や海岸の祭礼や民俗行事、あるいは都市における異端な振る舞いから開かれるのではないかと考え始めた。そこで霜月祭の経験から、各地の神楽を見に行ったり、祭礼に参加したり、各地の巨石を訪ねたりしているのである。そこにはソフィストケートされた都市では目にすることのできない猥雑な空間と音、そして美術という範疇を超えた色彩感に溢れているのであった。

私のように北海道生まれで、しかも酪農地帯という西欧近代が色濃く様々な価値観に反映している地域で少年時代を過ごし、日本の民俗的伝統の希薄なところで文化的基盤を培った身には、津軽海峡の南の本州以南で見聞きする伝統行事の多くは少なからぬ驚きをもつものであった。でもそれは「古く懐かしい日本」というステレオタイプな観念を超えるものではなかった。しかし、霜月祭での経験以後、まだ知らない日本がまだまだあるのだと思うようになった。それは混沌と逸脱であり、
説明のつかないエネルギーに満ちたものである。

だが、様々な地域の祭や行事を見に出かけるうちに、その場に出かけてきた傍観者でしかない自分を思い知らされることとなった。歴史と民俗学の知見に多少の興味を持ち、地方の神楽や祭を見ても、それは、自分の知的好奇心を満足させるだけのことではないか。けっして、その土地の祭に当事者として参加していないし、時にはカメラをぶら下げて歩き回っていると、土地の若者から「なにしに来た!」と罵倒されることもあった。それはそうだろう。よそ者が、なんで自分たちの祭でウロウロしているのだ、感じるのは当然である。そんな経験を経て、祭を当事者として参加している人々には、明らかに「この場所」という依ってきたる空間があるが、私には、その依るべき場所がないことに気がつき始めた。それは、私はどこにいるのだろうか、という不安でもある。

最初の霜月祭行きの時、幸い祭の翌日は天気が良く、雪もなかったので、上村の下栗地区まで車で登ってみた。そこは宮本常一の写真集でも紹介されている、大きなV字谷を眼下に見る、山肌に張り付くような山村であった。車を止めて、村の一角に佇んだ時、ずいぶん遠くに来たものだと、深く感じていた。V字谷と稜線のはるか向こうには南アルプスの峰々が望見できた。雪に覆われた聖岳が静かにそびえ立っていた。

今思えば、霜月祭もまたあの時、下栗から望み見た聖岳のように、私にとっての「遠い山なみ」なのかもしれない。近寄ることのできない、彼方から仰ぎ見るだけの「遠い山なみ」である。今回の霜月祭行きもまた、その思いを強く感じさせる旅であった。

12/20日本の装飾美術ゼミ第4回祭、神楽について 考えたこと その2

長野県上村木沢の「霜月祭」をみて思ったこと

霜月祭を見て、これはやはりカーニバルではないかと思いました。カーニバルは祭りの典型の一つです。カーニバルには二つの顔があると思います。ひとつは人間や穀物、さらには歳などの死と再生を神に感謝することです。もう一つは、個々人の内面の鬱屈を晴らすために行われる蕩尽、発散です。カーニバルでは死と再生が狂乱と交叉します。

以前に書いた論文「陶磁に見られる境界観念について」(神奈川歯科大学 基礎科学論集30、2013)から、気になった部分を抜粋します。

かつて人々は自分たちの秩序を維持できる日常的な世界と、日常とは別の、外側の未知の世界、自分たちではどうすることもできない神の領域、魑魅魍魎の世界を意識化していた。そして境界外の意識化は、帰属する共同体の内側における、異質なものの排除としても顕在化していた。山口昌男はそのことにふれ
人は連続性の線の内部への侵入をおそれる。この侵入を防ぐ行為は、境界および防壁を築くことによって解決される。ところがこれは外来者の侵入を防ぐというより、意識の内側の「異和的」な部分を可視的なものに転化することによって外在化し、こうして、境界外に追放しようとする願望にほかならない。
山口昌男『文化の両義性』岩波現代文庫、2000年、92p)
とした。例えば祝祭において、よく日頃は普通の姿の人々が過剰に着飾ったり、または汚されたりするのは、意識の内側の違和的なものを顕在化させ、一夜限りで終わらせたり、外部に追放したりして、日常世界におけるエントロピーの増大を防ぐことが願われているのだ。

カーニバルから

カーニバルと聞いて思いつくのは、ブラジルはリオデジャネイロのカーニバルや、イタリアのベネツィアのそれだが、日本の長野県南部の飯田地方の南アルプスの麓、上村で十二月初旬に行われる「霜月祭」や、早川孝太郎著の『花祭』で知られる愛知県設楽郡豊根村東栄町で十一月から十二月にかけて行われる祭も、「意識の内側の違和的なものを顕在化させ、一夜限りで終わらせたり、追放したりして、日常世界におけるエントロピーの増大を防ぐことが願われている」という点では、出自や趣旨は違っているがカーニバルに当たるものであろう。
山口はカーニバルの祝祭について
カーニバルの祝祭は、本質的に、転換の意識に付随する両義的な世界感覚の表現である。したがって、この日は、阿呆王を選び出して、戴冠をし、一日中悪ふざけに熱中し、すべての秩序を停止し、混沌をして世界の基調ならしめる。あらゆる価値、人、事物は、それが通常所蔵している文脈から離れて、他の事物と、意外としか言いようのない事物と結びつき、それらが日常生活では現わさない潜在的意味を表面させる。つまり、存在する事物が、日常の効用性の文脈では示さない異貌ともいうべき「響き」が、祝祭日の宇宙の基調となるのである。騒音すらもこの日の意識の過渡的状態を仲介する不可欠の要素となるのである。
山口昌男『文化の両義性』岩波現代文庫、2000年、95p)
と書くのである。「響き」あるいは非日常的な音という点では、カーニバルが街を喧噪の巷としてしまうことや、叫び声をあげる、太鼓を打ち鳴らすなど、祝祭には音がつきものである。
アドニス祭礼

祝祭であるカーニバルの典型をギリシアアドニス祭に見ることはできないだろうか。またアドニス祭礼には「アドニスの庭」と称される壺が重要なアイテムとして登場する。
アドニス祭礼とは、ギリシア時代に夏の盛り、アドニス神話におけるアドニスを祭る祭礼である。正式な婚姻関係を持たない女性や娼婦が、家に男友達を招待してどんちゃん騒ぎをする祭りである。まずアドニス神話とはなんだろうか。
高津春繁『ギリシャローマ神話辞典』(岩波書店、1960)の、アドニス神話によれば
キニューラスの家系はアフロディーテーを信仰してきた。しかしキニューラスの王女ミュラは美しさ女性だったが、ある人が「アフロディーテーよりも美しい」といったことにアフロディーテーは怒り、ミュラが父王キニューラスを恋焦がれるようにしむけた。乳母の導きで父王と一夜をすごし、身ごもってしまう。怒ったキニューラスはミュラを殺そうと追いかけるが、哀れに思った神々がミュラをミルラ(没薬)の木に変えたしまった。その木に野猪ぶつかり木がさけて生まれたのがアドニスである。アフロディーテーは美しい子供のアドニスを箱に入れ、中を見るなと告げて冥界のペルセポネーに預ける。ペルセポネーは箱の中を見てしまい、その子供の美しさにほれ込んで、アフロディーテーに返さないでいる。アフロディーテーの申し出で、調停したゼウスは一年の三分の一を冥界のペルセポネーと三分の一はアフロディーテーと、あとの三分の一はアドニスの自由とした。アドニスは狩りに出たときにアフロディーテーに嫉妬したペルセポネーの策略で野猪に殺される。その時流れた血からアネモネが生まれ、アフロディーテーの涙から薔薇がうまれた。

自分の父と関係してしまった母ミルラは怒りの父に追われ、神々に香料のもとともなる没薬(ミルラ)の木に変えられる。そのミルラ(没薬)の木から生まれたアドニスは、幼くして美と愛の神アフロディーテーと冥界に住むペルセポネーに愛され、はかなく命を落としていく。アドニスは英雄でも神でもなく、女神たちに溺愛され、美少年の妖しいエロスを香料の催淫作用とともにふりまいていく。そのアドニスを祭るのがアドニス祭である。

M・ドゥティエンヌによれば、アドニス祭は、神々にささげられる香料、またそれは反面、人間において催淫をもたらすものでもある香料に深く関わり、穀物、その再生をつかさどるデーメーテールを祭るテスモポリア祭と対照をなしているとしている。
デーメーテールのテスモポリア祭は、その開始にあたって家庭の主婦に禁欲を強いる。それは禁欲の努力の結果が、真面目な農耕における穀物の収穫という暗喩に結びついているからだ。穀物の種子の蒔かれる場所は、恵みの大地であり、八か月の月日を要して収穫されることになる。それは地道な禁欲的努力の結果である。それを祭るテスモポリア祭は「真面目」、「良いものを生みだす繁殖力」、「成熟」「根がついている」を暗喩的に示している。それに対してアドニス祭の期間には、遊び、気ばらしがあり、肉体の快楽に身をまかせる淫蕩の時である。「アドニスの庭」と称される籠や壊れかけて不完全な壺に撒かれたウイキョウ、レタス、小麦、大麦の種子は、夏の盛りの八日間で儚く芽吹き成長し、萎れ、枯れていくことになる。アドニス祭は「表面的で軽薄」、「成熟しない」、「良種のものを生まない」「根がない」を暗喩している。そしてテスモポリア祭が正式な婚姻による正妻の禁欲を伴う公式な祭礼であるのたいして、アドニス祭は娼婦や妾が男友達を私邸に招いてするどんちゃん騒ぎによる私的な祭である。

アドニス祭期間中に「アドニスの庭」といわれる壺は、日の照りかえる屋根の上にのせておくのだが、当然、四種の種子は、タンムーズ神話など農耕神話における、死の状態(種)からの生命の再生などではなく、ただただ空しいことの実行である。つまりアドニスにシンボライズされた秩序とは相いれない愛欲、放縦の虚無性である。デーメーテールの祭礼であるテスモポリア祭が、正式な婚姻、禁欲を前提とした抑制され、子孫を得ることが願われた性欲の行使が正当化するための祭であるのに対して、アドニス祭は娼婦たちによる、無秩序な男女の関係、秩序を破壊しかねない快楽と放縦に満ちた愛欲の行使、そして何も生まない快楽だけにフォーカスした祭である。種子を撒き、成長させ、萎え、枯れさせた「アドニスの庭(壺)」は祭の最後に海などに放擲される。
(M.ドゥティエンヌ、小苅米晛・鵜沢武保訳『アドニスの庭園』せりか書房、1983年、211p「アドニスの種子」以下の記述より)

ここまでの拙論の引用を踏まえて考察を続けます。

デーメーテールの祭礼であるテスモポリア祭とアドニス祭は対照的な関係にある。
テスモポリア祭 アドニス
参加者 家庭の主婦 娼婦
参加の姿勢 禁欲 淫蕩
性について 子孫を得るため 肉体の快楽
植物について 穀物 儚く芽吹き、萎れ、枯れる植物
植物の場所 恵みの大地 壊れかけた壺
植物の状態 大地に根をはる 根なし
キーワード 真面目 表面的で軽薄
良い繁殖力 良種のものを生まない
成熟 成熟しない

テスモポリア祭は10月小麦の種播の前に行われる。女性の生殖能力と大地の生み出す力が一体化しています。それに対してアドニス祭は、エロスという一時の快楽と衰退を示しています。二つの祭には生殖とエロスが対照的に表れています。私はそこに人間の強さと弱さをみます。
「インドラジャドラ」や「葵祭」はテスモポリア祭の流れの中に存在しているのでしょう。しかし「インドラジャドラ」や「葵祭」にはギリシアにおけるアドニス祭に対応する祭があるのでしょうか。ギリシアでは生産と不毛、生殖と愛欲が、対で考えられました。私たちの時代にはこのような対応関係を見ることはありません。生産による豊かさの追求と、生殖行為によって子孫を残すことは「正しい」ことです。それに対して無駄な種蒔をして、植物を干からびさせたり、愛欲にふけることは「いけないこと」です。
私たちは「正しい祭」だけが残った時代に生きているのかもしれません。「いかがわしいもの」を年に一度でも表に出すことは無くなったのです。

霜月祭は、冬を迎える季節に、沈みゆく「気」を活性化させるために、湯立をして、身体を大きく動かす野蛮が残っています。その身体の活気が春を呼び込むのでしょう。霜月祭にはかすかに「いかがわしいもの」が残っていると考えるのは考えすぎでしょうか。少なくとのかつての祭は「正しさ」と「いかがわしさ」の両義性を持っていたように思います。
今日、アドニス祭で発散される負のエネルギーである、無秩序、快楽と放縦の情念はどこに行ったのでしょうか。私はそこに境界の欠損を危惧しているのです。かつての祭のように、時を定めて蓄積された「いかがわしさ」、つまり負のエネルギーを境界の外に追いやることがなくなったように思われます。それは社会の不安定化を進めるように思いますがいかがでしょうか。

12/20日本の装飾美術ゼミ第4回 祭、神楽について 考えたこと その1

インドラジャトラから
ネパールのカトマンズで、インドラジャドラ祭を見てきたYさんやK君たちの報告を、動画を交えて聞きました。

Yさんによると
インドラジャトラ祭とは、カトマンズに雨をもたらす豊穣の神インドラを祀るために巨大な御柱が立ち、生き神クマリが山車に乗ってカトマンズの街を巡行し人々を祝福する初秋の大祭です。
生き神クマリとは、ネパールのネワール仏教を信奉するシャーキャの人びとの中から一定の条件を満たす、初潮前の少女の中から選ばれます。
またこの祭の時のみシヴァ神の化身のバイラヴ神の面が開帳されたり、死者と家族が対面するための儀礼が行われるなど、様々な行事が複雑に絡み合った祭りです。
ダンサー達がヒンドゥ教の神々に扮し旧王宮広場で連日仮面舞踊を行います。

とのことでした。少し整理してみます。

登場する神々
インドラ(Indra、因陀羅、梵)漢訳では帝釈天
雷神、水の神、豊穣の神
バイラヴ神
ヒンズー教最高神の一つであるシヴァ神のヴァリエーションでネパールで広く信仰される
シヴァ神(Siva)
ヒンドゥー教の三最高神の一柱。創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌに対してシヴァ神は破壊を司る。
ヴェーダ神話に登場する暴風雨神ルドラを前身とし、『リグ・ヴェーダ』では、「シヴァ」はルドラの別名として現われている。暴風雨は、破壊的な風水害ももたらすが、同時に土地に水をもたらして植物を育てるという二面性がある。このような災いと恩恵を共にもたらす性格は、後のシヴァにも受け継がれている。
ルドラ(rudra)
風水害をもたらす荒ぶる神である反面、慈雨をもたらし豊穣と人々の健康・安寧を保障する存在
クマリ(Kumari、Kumari Devi)
ネパールに住む生きた女神。密教女神ヴァジラ・デーヴィー、ヒンドゥー教の女神ドゥルガーが宿り、ネパール王国の守護神である女神タレジュやアルナプルナの生まれ変わりとされており、国内から選ばれた満月生まれの仏教徒の少女が初潮を迎えるまでクマリとして役割を果たす。
女神ドゥルガー(durgā)
ドゥルガーは、ヒンドゥー教の女神。「近づき難い者」を意味。外見は美しいが、実際は恐るべき戦いの女神。10本あるいは18本の腕にそれぞれ神授の武器を持つ。神々の要請によって魔族と戦った。シヴァ神の神妃とされ、パールヴァティーと同一視された。(Wikipedia
アンナプルナ(サンスクリット語annapūrṇā)
サンスクリットで「豊穣の女神」の意味。




それぞれの神々の関係を整理してみよう。

男神と女神
シヴァ神と女神ドゥルガーは神と神妃である。破壊をもたらす荒ぶるシヴァ神(雷神)と近寄りがたい戦いの女神ドゥルガーである。シヴァ神は災いをもたらすとともに、大地に水をもたらす神として、豊穣、安寧の神です。
神の同一視
ルドラ、シヴァ、インドラは同一視されている。
クマリはヒンドゥー教徒からはタレジュ女神、ドゥルガー女神、仏教徒からは密教のヴァジラ・デーヴィー女神が少女の姿を借りて現れたと信仰されています。
クマリとインドラ
これらから、クマリはインドラの妻(神妃)と考えることができる。そしてこの場合、インドラは御柱に象徴され、祭りの時に、御柱依代として天から降臨する、あるいはバイラヴ神として開帳されるのに対して、クマリは実在の生神です。

雷神であるインドラと祭礼で神輿の乗せられて練り歩くクマリの関係は、葵祭における賀茂神社の祭神、 賀茂別雷大神 (雷神)と斎院の関係を思わせます。

賀茂神社の祭祀における斎院
斎院(さいいん)は、平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂御祖神社下鴨神社)と賀茂別雷神社上賀茂神社)の両賀茂神社に奉仕した斎王、または斎王の御所。賀茂斎王、賀茂斎院とも称する。
賀茂神社では祭祀として賀茂祭(現在の葵祭)を行い、斎王が奉仕していた時代は斎王が祭を主宰してきた。その後も葵祭は継続されたが室町、江戸、戦後と三度祭が断絶したという。その後、1953年に祭が復活したことを契機として、1956年の葵祭以降、祭の主役として一般市民から選ばれた未婚の女性を斎王代として祭を開催するようになった。斎王代に選ばれた女性は唐衣裳装束(からぎぬもしょうぞく)を着用し、舞台化粧と同様の化粧に加えお歯黒も施される。(Wikipedia

上賀茂神社 賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)
祭神 賀茂別雷大神 (かもわけいかづちのおおかみ)若々しい雷神
賀茂氏の祖神。「別雷」は「若雷」の意味、若々しい力に満ちた雷(神鳴り)の神
下鴨神社 賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)
祭神 東殿:玉依姫命 (たまよりひめのみこと) - 賀茂別雷命上賀茂神社の祭神)の母
西殿:賀茂建角身命 (かもたけつぬみのみこと) - 玉依姫命の父

そこで神の不在と、神妃の実在ということを考えてみました。

クマリの場合
インドラは常日頃、神として実体を持ちません。しかしクマリは実在します。神の夫婦関係は肉体関係が伴わないません。したがって神の妻(クマリ)は処女です(でなければなりません)。

賀茂神社葵祭の斎院の場合
斎院は未婚の女性に限られ、お歯黒が施されます(お歯黒は俗世界では既婚のしるし)。祭りに期間中、斎院は既婚者と見なされているのでしょう。一時的な神の妃です。賀茂神社の斎院、葵祭の斎王は、祭りの時だけ降臨する祭神に付き添う妻?ではないでしょうか。

神々の婚姻
神との関係は身体を伴わないません。したがって神の妻は当然ながら処女です。このような荒ぶる神と、霊力の強い神妃は、人びとに豊穣と保護を与えると信じられました。神の世界での正式な夫婦関係は、現実世界での模範です。

豊穣が願われた祭りは、ただ単に食物生産の豊かさを願い、祝福するだけではなく、人間界の正しい夫婦関係の奨励と、正しい性関係からの子孫の繁栄を祝福するものなのでしょう。

10/25日本の装飾美術ゼミ第2回のレジメです。

境界と美術作品
1. 宇宙樹・世界樹生命の樹
ユグドラシル
北欧神話に登場する世界樹
宇宙には自然よりも力のあるものはない。すべてのもの、神さえも自然のなすがままだと、FriggaとOdinは諭しています。ユグドラシルは自然と宇宙を体現しています。その根から葉まですべては繋がっています。ちょうど地球が遠い惑星やさらに遠い宇宙に繋がっているように…
http://norsespiritualism.wordpress.com/2013/11/27/yggdrasil/ の一部を泉が翻訳

扶桑樹
扶桑樹は中国の古代神話に登場する宇宙樹
山海経』第九 海外東経
黒歯国はその北にあり、人となり黒い歯、稲(こめ)を食い、蛇を食う。一つは赤く一つは青い。(蛇が)傍にいる。下(部)に湯のわく谷があり、湯の谷の上に扶桑あり、ここは十個の太陽が浴(ゆあ)みするところ。黒歯の北にあり。水の中に大木があって、九個の太陽は下の枝に居り、一個の太陽が(いま出でんとして)上の枝にいる。
山海経』第十四 大荒東経
大荒の中に山あり、名は孽揺頵羝(げつようきんてい))。山の上に扶木(扶桑)がある。高さ三百里、その葉は芥(からし)菜(な)のよう。谷あり、温源の谷(湯谷)といい、その湯の谷の上に扶木あり、一個の太陽がやってくると、一個の太陽が出ていく。(太陽は)みな鳥を載せている
生命の樹・花宇宙』杉浦康平、2000
「扶桑の樹」は、中国の古代神話に登場する「宇宙樹」です。漢代の記述(前漢、東方朔の『十洲記』)によると、「・・・・・東海の青い海に浮かぶ扶桑という島に茂る、桑に似た巨大な神木。その幹は、二千人ほどの人びとが手をつないで囲むような太さをもつ。樹相がとても変わっていて、根が一つ、幹が二本、この二本の幹はたがいに依存しあい、絡みあって生長する・・・・・」と説かれています。さらに
「・・・・・九千年に一度、小さな果実をつける。この果実を食べた仙人は、金色の光を放ち、空を飛ぶことができる・・・・・」とも記されています。
扶桑の樹は「若木」とも「博桑」とも呼ばれていた。桑の木に似て、生命を産みだす霊力を秘める、不思議な樹木だと信じられていました。


カルパヴリクシャ
帝釈天(インドラ神)の楽園にある、インド・ヒンドゥー神話に登場する空想上の木で、宇宙を統括している。果実を受けたものは神々と同じように永遠の命が約束される



生命樹の渦巻き
松岡正剛松岡正剛千夜一夜http://1000ya.isis.ne.jp/0981.html
杉浦 康平『かたち誕生―図像のコスモロジーNHK出版、1997 について
杉浦さんが唐草文様を見ている。そこからエジプト、ギリシア、東アジア、中国、日本をまたぐユーラシア植物帯のうねりが立ち上がる。パルメットから忍冬唐草へ。
しかしその文様をもっとよく見ると、植物たちは動きだし、そこに渦が見えてくる。
日本の正月では、この唐草文様を覆って獅子舞が踊っている。中国では獅子だけではなく、龍も亀も、鳥も魚も、その体に渦を纏って世界の始原や変容にかかわっている。そこで杉浦さんは‥ふと目を転じ、その渦がときにバティック(更紗)となって人体を覆い、古伊万里の章魚(たこ)唐草となって大器となり、ジャワの動く影絵となって夢に入りこむことを、抽き出してくる。
杉浦さんに‥よって、どの渦にも、天の渦・地の渦が、水の渦・火の渦が、気の渦・息の渦が、躍動していくことになる。
これらの渦を総じていくと、カルパヴリクシャが待っている。樹木が吐く息のことである。けれども杉浦さんが‥見るカルパヴリクシャは、地表を動き、村を渦巻き、空中の雷や鳥の旋回や風の乱流と重ね合わさっていく。


日下のこと
谷川健一「古代人の宇宙創造」『日本人の宇宙論』(谷川健一著作集第八巻、三一書房、1988)
宇宙の真ん中に、それを支える生命の木があるという考えは各民族の神話や伝説に数多く見られる。・・宇宙樹は世界樹とも呼ばれている。
古事記仁徳天皇の条
「此の御世に免寸河(とのき)の西に一つの高樹有りき。其の樹の影、旦日(あさひ)に当たれば、淡道島(あわぢしま)におよび、夕日に当たれば、高安山を越えき。故(かれ)、この樹を切りて船を作りしに、いとはやく行く船なりき。時にその船をなづけて、枯野(からの)と謂いき」
その枯野という船で淡路島の清水を酌んで天皇に聖水をたてまつった、という。この話は宇宙樹の一種と思われる。その樹が免寸河の西にあったということ
和泉国大島郡に等乃伎(とのぎ)神社がある。(高石市取石、阪和線富木駅
等乃伎神社のある場所は、『古事記』の高樹があった地と伝承されている。
大和岩雄によると、そこ(等乃伎神社)は、高安山の山頂の夏至の日の出を仰ぐ場所であり、高安山からみれば冬至の太陽が海に沈む位置に臨んでいる。
等乃伎神社のあるところはかつて日部(くさかべ)郷に属していた。等乃伎神社から東に600mで日部神社(大阪府堺市西区草部262)がある。
高樹伝説の所在地は日下または日部と記され、クサカと呼ばれていた。







2. 樹木と信仰
日本の神社には御神木ある
樹木に神をみる信仰
樹木信仰の対象の多くは照葉樹 常緑という意味で松もまた信仰の対象
神樹の存在
神々が人々の呼びかけに感応して、その神力をあらわすために憑依する樹木
例 榊(サカキ)
生きている樹木の枝が、どちらの方向に向かって伸びているのかをみて、神の意志を探ろうとするもの 例 松など
3. 古典における松
古事記講談社学術文庫 次田真幸訳注
景行天皇(七) 倭(やまと)建(たけるの)命(みこと)の歌
尾張に 直に向へる 尾津の崎なる 一つ松 あせを 一つ松 人にありせば 太刀佩(は)けましを 衣著(つ)けましを あせを
尾張国に向かって、まっすぐに、枝をさしのべている尾津崎の一本松は、親しい友。一本 松よ、人のすがたであったならば、太刀を佩かせ、りっぱな衣を著けてあげることができるも のを、親しい友よ
常陸国風土記講談社学術文庫 秋本吉徳訳注
十六 香島郡(三)
・・・相語らまく欲(おも)ひ、人の知らむことを恐りて、歌場(うたがき)より避(さ)りて、松の下に蔭(かく)り、手を携え膝を
促(ちかづ)けて、懐(おもい)を陳(の)べ、憤(いきどほり)を吐く。既に故き恋の積れる疹(やまひ)を釈(と)き、還(また)、新しき歓びの頻(しきり)なる咲(えみ)を起こす。時に、玉の露杪(こぬれ)なる候(とき)、金(あき)の風の令(お)節(り)なり。あきらけき桂(つ)月(き)の照らす処は、なく鶴(たづ)が西(かへ)る洲なり。颯颯(さや)げる松風の吟(うた)ふ処は、度(わた)る雁が東(ゆ)く岵(やま)なり。山は寂莫(しづか)にして巌の泉旧(ふ)り、夜は粛(き)条(び)しくして烟(けぶ)れる霜新なり。近き山には、自ら黄葉(もみじ)の林に散る色を覧(み)、遥き海には、唯蒼波(なみ)の磧(いそ)に激(たぎ)つ声を聴く。茲(こ)宵(よい)茲(ここ)に、楽しみこれより楽しきは莫(な)く、偏(ひとへ)に語らひの甘き味(あぢはひ)に沈(おぼ)れ、頓(ひたぶる)に夜の開けむとすることを忘る。俄(にわか)にして鶏鳴き狗吠え、天(そら)暁けて日明かなり。ここに僮子(うない)等(ら)、為(せ)むすべを知らず、遂に人に見らるるを愧(は)ぢて、松に樹と化成(な)れり。郎子を奈美(なみ)松と謂ひ、嬢子を古津(こつ)松と称ふ。古より名を着けて、今に至るまで改めず。
万葉集講談社文庫 中西進 訳注
巻二 磐代の浜松 有馬皇子、みずから傷みて松が枝を結ぶ歌二首
141「磐代の浜松が枝を引き結び 真(ま)幸(さき)くあらばまた還り見む」
142「家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」
有馬皇子事件の際の歌
141 磐代の浜松の枝を結びあわせて無事を祈るが、もし命があって帰路に通ることがあれば、また見られるだろうなあ(それは無理なのだろう)
巻二 吉野より蘿(こけ)生(む)せる松の柯(えだ)を折り取りて遣はしし時に、額田王の奉(たてまつ)り入れたる歌一首
113額田王「み吉野の玉松が枝は愛(は)しきかも 君が御言(みこと)を待ちて通(かよ)はく」
松の木を玉松すなわち魂松(たましいの松)とし、松を神樹とみる信仰がみえる
巻九 鷺坂にして作れる歌一首
1687柿本人麻呂「白鳥の鷺坂山の松蔭に宿りて行かな夜も深け行くを」
松の木の下に宿ることで、松に憑依する神霊の加護、守りを受けることができるとする信仰
4. 松と信仰
松と清浄
神は、清浄な場所でなければに降り立つことができない。人々が生活していくために必要とされるものは人の世の垢に汚れているので、神々はそこに宿ることができない
松は、人々の暮らしとは切り離すことのできない樹木ではあるが、四季を通じて、みずみずしい緑の葉を保ち色を失わないところから、人の垢に汚れない清浄な樹木であると、見立てられていた
松は海岸など日本人にとって境界を意識させる場所にあり、松原は具体的に松の葉が敷きつめられた場所であり、清浄な浄土を意識させる場所であった

松は神の依代
松は別世界を意識させる樹木である。天女が舞い降りたのは松原であった。美保の松原
正月の松飾りは神様の降臨を願われている。竹と松の組み合わせが門松のも同様である

5. 描かれた松
俵屋宗達筆の「松図」障壁画
京都東山養源院
西軍に落とされた伏見城の東軍の武将たちを弔うために徳川方が建てた
中心的な神聖な場に松図が配される
松の持つ不浄を清める霊力と、松のもつ浄土意識が深く関わる
江戸城 松の廊下
忠臣蔵」の「松の廊下」
江戸城登城の最初の公的空間 松の廊下から先は俗世間とは違う
悪霊が入り込めないように、清浄を保たなけばならない
松に象徴性を込め命名された

6. 松島
蓬莱島
回遊式庭園の中の島には松がある。現世浄土意識からの蓬莱島である。
岡本健一『蓬莱山と扶桑樹』(思文閣出版、2008)
蘇我馬子は、飛鳥の自邸の庭に小さな池を掘り、なかに小嶋を築いた。・・・この「島」こそ蓬莱島であった。・・・馬子は没後、近くの桃原墓(ももはらのはか)に葬られた。・・・この桃原も・・・蓬莱山と同じ神仙世界「桃源郷」を彷彿させる。
平成11年5月、飛鳥京跡の付属苑池(奈良県明日香村出水)が見つかった。・・・苑池の底には美しい玉石が敷き詰めてあった。・・・「瀛洲(えいしゅう)は積石多し」(晋の『王子年拾遺記』)といわれたイメージを装う・・・
前方後円墳が蓬莱山(島)であったこと、苑池もまた、神仙境をこの世に再現したものであることに思い至れば、「蓬莱島の渚」が苑池の州浜に組みこまれることは、神仙境のふたつの表象を組み合わせただけで、ごく自然な流れとして了解できる。古代びとは「常世の波の重浪(しきなみ)の帰(よ)する神仙境を想像したのであろう。


7. 能舞台
方形の空間
能舞台は鞠庭、四畳半茶室、相撲の土俵と同様に方形の空間である
岡田保造『魔よけ百科』(丸善、2007)土俵・能舞台・茶室
相撲の土俵と能舞台はいずれも三間四方で、それに蹴鞠の鞠庭や四畳半の茶室を加えると、正方形の場には呪術的なものを感じる。土俵の四本柱と鞠庭の式木(四季木)は、東北が青と春、東南が赤と夏、西南が白と秋、西北が黒と冬を表していて五行の配当に合っているうえ、四神信仰をも表す。ただし、四本柱は現在では取り払われて四色の房に代わっている。また能舞台と鞠庭には、地下に甕を埋める場合がある。能舞台床下の甕は、足拍子を共鳴させるためにあるというが、埋めた甕には魔よけの要素も考えられる。京都に現存する公家屋敷・冷泉家と函館五稜郭内にあった奉行所の、いずれも玄関式台の床下から甕が出土していて玄関を守る呪物であった可能性がある。さらに、能舞台では、九字を表す三方陣と同様に九つに区画され、シテの位置である「常座」など、それぞれの区画に名称が付けられている。能の前身である猿楽は神事芸能であった。それと同じく相撲も豊作を祈願したり神意をうかがったりする神事から発達したもので、力士が踏む四股は、悪霊を払ったり地霊に敬意を表したりするためのものである。とくに能や相撲の摺り足や、能の足拍子は、反閇(へんばい)に通じるものがある。土俵上で力士は蹲踞(そんきょ)の姿勢をとり、茶に招かれた茶客は露地の蹲踞(つくばい)でつくばう。どちらも身を清めて聖なる場所である土俵や茶室に入るのである。また茶室は母屋の鬼門方位に建てられている場合が多い。
8. 能の演目では
井筒(いづつ)小山弘志他 「岩波講座 能・狂言 ・能鑑賞案内」(岩波書店 1989)
初瀬参りの途次、在原寺の廃虚を訪れた諸国一見の僧(ワキ)の前に、美しい里女(シテ)が現れる。女は在原業平の塚に花水を手向け、僧に問われて業平と紀有常の娘との筒井筒の物語などを語ったのち、自分こそ有常の娘(井筒の女)とあかして姿を消す(中入)。僧の仮眠の夢の中に、再び業平の形見の衣装を身にまとった有常の娘の亡霊(後シテ)が現れ、恋慕の舞を舞い、恋の思い出の井筒をのぞきこみ、夜明けとともに消え失せる。
東北(とうほく)
東国から出た僧(ワキ)が、京都の東北院に着き、美しい梅花を眺めていると、女(シテ)が現れ、その梅は東北院がまだ上東門院(しょうとうもんいん)(藤原道長の娘彰子)の御所であったとき、和泉式部が植え置き愛でた梅であると告げ、自分こそその主と言い、梅の木陰に消える(中入)。僧が法華経を読誦していると、和泉式部の霊(後シテ)が現れ、上東門院門外で、道長法華経を読誦したのにひかれて歌を詠んだ功徳で歌舞の菩薩になったと述べ、和歌の徳や霊地東北院の澄明な風光をたたえつつ、美しい舞を舞って、消え失せる。
etc.
神楽から発した能には、現実世界の延長線上の「あの世」「浄土」に関わる演目を多く見る
鬼界へ去った人々のこの世での思い出、未練が幽玄(ものごとの奥ゆかしさ)として現れる
9. 能舞台とは蓬莱である
能舞台は神仙伝説で、東海に浮かぶ仙境としての方丈、瀛洲、蓬莱から、現世浄土としてイメージされる松のある中の島が、そのもとである。
能舞台には鏡絵としての松があり、また舞台周囲は州浜とされている。このことも能舞台が蓬莱島であったことを示している。
10. 近世の松の観念
長唄越後獅子
「何たら愚痴だえ、牡丹は持たねど越後の獅子は己が姿を花と見て、庭に咲いたり咲かせたり、そこの おけさに異なこと言はれ、ねまりねまらず待ち明かす、御座れ話しませうぞ、こん小松の蔭で、松の葉 の様にこん細やかに…」
一人旅の寂しさの中、妻=牡丹となぞらえ、牡丹=妻がいないと愚痴を言うのか、おけさを踊っている女性に今夜会いましょうと言い寄られ、立ったり座ったりしながら待っていて、小松の蔭でお話しましょう、とのこと。小松の松の葉が言い寄った女性を意味している。

長唄「松の緑」
「禿の名ある、二葉の色に大夫の風の吹き通ふ 松の位の外八文字 華美を見せたる蹴出し褄、よう似 た松の根上りも、一つ囲ひの籬にもるる 廓は根引の別世界」
廓言葉で「松の位」とは最高位の遊女を指し、「はでを見せたる蹴出し褄よう似た松の根上りも」とは派手な下着を見せる様子は松の露わになった根と似ている、との意味女性と松の組み合わせがみられる。

参考文献
杉浦 康平『かたち誕生―図像のコスモロジーNHK出版、1997
岡本健一『蓬莱山と扶桑樹』思文閣出版、2008
岡田保造『魔よけ百科』丸善、2007
小山弘志 他『岩波講座 能・狂言 ・能鑑賞案内』岩波書店、1989
別冊太陽『出雲 神々のふるさと』平凡社、2003
石田佳也 他編『日本を祝う展』図録、サントリー美術館、2007
京都国立博物館編『狩野永徳』展図録、2007
千葉市美術館編『蕭白ショック!!蘇我蕭白と京の画家たち』展図録、2012
『原色日本の美術 15 桂離宮と茶室』小学館、1994
出光美術館編『志野と織部出光美術館、2007
国立歴史民俗博物館編『「染」と「織」の肖像』図録2008
女子美術大学 他 監修『江戸KIMONOアート きもの文化の美と装い展』図録、2011
出光美術館編『古唐津』図録、出光美術館、2004
九州国立博物館編『古武雄』図録、2014

10/25 日本の装飾美術ゼミ 第2回目通知の内容、少し加えました

9月27日に自主ゼミ「日本の装飾美術」が始まりました。11人の方に参加していただきました。

さて第2回は10月25日の土曜日、同じ「調布市文化会館たづくり」で開講します。テーマは「境界は美術作品とどう関わるか」としました。生と死、現世とあの世、彼岸と此岸、日常と非日常、秩序と混沌、などふたつの相対する世界の境界、そこは二つの領域の異なった相貌が見える場所です。まずは生と死の境界についての観念について。まずはこの作品

長野県富士見町の井戸尻考古館が所蔵する「石うす」です。この「石うす」のわきには、こんな説明文がありました。

「・・・大抵の石うすは終いに割られた。村の中や畑に撒き散らされたり、埋められたらしい。土偶と同じように、殺められることによって新たな食糧を生産しつづける女神であった。」とあり、死と再生の境界的シンボルとして石うすが観念されたいたことが理解されます。この辺から境界と美術作品?を考えていこうというわけです。それにしても魅力的な形をした石うすです。

もう一つのテーマは「描かれた松」を考えていきます。松は境界を示す樹木です。例えば、この作品、長崎県三川内焼の「染付松樹文壺」ですが、なぜ松が描かれているのでしょうか。「そりゃ、縁起物でしょう」という見方を越えて、描かれた松の理由を少ししつこく追及しようという訳です。


佐世保市三川内焼美術館

そこで松島、三保の松原、浜松図、能舞台の鏡板から松の廊下、長唄の松などなどから松を突き詰め、松が境界をシンボライズする樹木であることから、松を描いた造形作品を考えていけたらと思います。

お楽しみに・・・

こんなことをゼミではしています。新たに参加を希望する方は下記メールアドレスにメールをください。まだ若干余裕があります。

shigeseminar@gmail.com