境界から考える

横須賀市民大学での講座のテーマの一つが「境界」なんです。「境界」にはいろいろあります。この世とあの世、生と死、男と女、国とくに、海と陸地などなどです。

現在では境界が線で表され、あいまいな領域のあることが認められない窮屈さがあるように思われます。

例えば生死は脳死とかを別にすれば生物学的にその境ははっきり一点で区別されて説明されています。しかし日本では中世まで生と死の間に境界領域があったのではないでしょうか。生物的な死から「もがり」をへてあの世へ旅立つ。そこには生でも死でもない曖昧な領域ありました。逆に「生まれる」は赤ちゃんがあの世から来訪すると考えられていたようで、幼児などの子供はまだこの世の存在とは認識されないでいたようです。いくつかの儀礼を通過してこの世の大人になっていったのです。

祭りの神楽などに表されているのは、鬼などの「向こう側」の住人が祭りのときだけ境界を越えて「こちら側」に侵入してくることでしょう。つまり祭りは「こちら側」と「向こう側」があいまいになる境界領域なのです。「こちら側」と「向こう側」があいまいになるとさまざまな倒錯が起こります。女装するおじさん、化粧する稚児などです。

男と女がはっきりと区別されたのは近代になってからでしょう。江戸時代の浮世絵には性別があいまいな表現がたくさんあります。山田吾郎さんが言っていましたが、多くの民族衣装(もちろん和装も)では男女の性差は少ないものです。いわゆる洋装が行き渡るのと性差の明確化(抑圧)は案外連動しているのかもしれません。男と女の間に曖昧領域があること。その境界は明確ではないと思われます。その曖昧領域に優れたアーチストが多いのは興味深いことです。

村井章介さんの「中世日本の内と外」(ちくま学芸文庫、2013)を読むと、平安時代から室町時代にかけての日本、朝鮮、中国の間にはさまざまな境界領域ともいえる地域は、そこで暮らす人々がいたようです。とても現在でいう国境線などはなかったようなのです。そのような領域を通過して文物がもたらされたのです。日本のことを考えるとき、そのような境界領域のあることを踏まえる必要があります。

横須賀市民大学の講座について

Twitterで告知した横須賀市民大学での講座内容は次ように予定しています。

講座名 日本の美術1

サブタイトル インテリア、ファッション、絵画、工芸から日本の美術を考える

内容紹介
和食はユネスコ文化遺産に登録されました。和の美はどうでしょうか。日本の美をジャンルにこだわらず、快楽や死生観から広く考えていきます。美術作品や衣装の何気ない表現を考えることによって、現代の私たちの世界が今までより少し新しく見えるかもしれません。

講座に通底している考え方は「境界」です。美術史の王道からは少し離れた視点から日本の美を考えていきます。自然との関わり、衣裳、工芸に表れたもの、物語などを切り口にします。途中一度だけ、宮崎駿のアニメから考えていく回を設けました。バラバラなことを講義しているように見えるかもしれませんが、実はつながっています。最後に「和の美」にまとめられればと考えています。

予定
1 境界という立ち位置から日本の美術を見てみよう
2 自然(神)への畏れが美の始まり? 呪術と美について
3 正倉院以来ずっと続いてきた? 花鳥という表現について
4 十二単ってなに? 襲色目というルールのこと
5 能舞台にはなぜ松が描かれているの? 蓬莱・州浜について
6 在原業平っていい男? 物語と絵画について
7 黒船はどうして黒い船と呼ばれたのだろうか? 色彩象徴について
8 気持ちの浮き立つ祭りの華やかさはどうして? 祝祭性と美について
9 地味な侘・寂をどうして愛でるのだろう? 侘寂と華美のコントラスト
10 ブレーク ジブリ作品を読む 「トトロ」から
11 江戸のファッションは粋?それとも洒落?
12 和食は文化遺産、和の美ってなに?

詳しくは横須賀市市民大学http://www.mmjp.or.jp/shogaigakushu/sub_new/03_daigaku/にあるpdfファイルを開いてください。やや重たいけれど……

「閉じている」と「開いている」

少し前に美大を今年卒業する若者の陶の作品を見た。渡辺拓也である。
http://wtakuya.web.fc2.com/

作品は近くで見なければ陶によるものとは見えない、いわゆる陶の質感とは程遠いハードエッジ感をもつものである。型抜きされた精密な陶土の形体に黒い釉薬がほどこされ、焼成されたのちに、つなぎ目をまるでガンダムのプラモデルのように見せながら、組み立てられることによって、さらにエッジ感を強めた作品といえよう。これまでの陶の概念をくつがえす野心的な作品である。ただ作品の完結度が高く、これからの展開はやや見えにくい作品でもあった。これからの新たな展開を期待したい。

渡辺拓也君の作品から受けた最初の印象は「閉じている」であった。個展会場で渡辺君に「どうですか?」と聞かれて、即座に「閉じている」と答えてしまった。これは閉鎖的というマイナスな意味ではなく、「閉じている」という観念を想起されたということである。一つ一つの部材はシェルともいうべきものであり、まさに殻である。殻は閉じた存在である。外界から遮断する隔壁を持ち、内部に独立した空間があり、外とは違う物質が満たしているか、空洞かである。卵殻、貝殻などだ。植物の種、蕾も閉じた存在である。それに対して「開いている」とは外界にさらけ出されていることである。植物の花、葉、弾けた実などがそれにあたる。

渡辺の師である井上雅之の作品はまさに「開いている」である。井上の作品は内部、内臓をさらけ出し、状況と呼吸している。
http://g-tokyohumanite.jp/exhibitions/2012/0409/02.jpg

解剖学者の三木成生さんは、動物は内部に空洞を持ち、空洞から捕えた獲物を体内に取り込む。それに対して植物はその器官を外界にさらけ出し、環境と交感しながら合成(例えば光合成)して躯体を作り上げると述べたが、そのことは動物は「閉じた」存在であり、植物は「開かれた」存在であることを意味している。

「閉じている」は殻であると述べた。殻kとはやがてはじけ、生命をなすものである。その意味で「閉じている」ものが発する観念は「生」であろう。今は静かに殻に閉じこもっているが、やがて芽を吹き、あるいは弾けて「生」を爆発させる。
それに対して、柘榴のように「開いている」もの、また開花した花、すなわち「開いている」ものは、枯れゆく運命を示唆している。その華やかさは終末への暗示であり、「死」と親縁性をもつものではないだろうか。

横須賀市市民大学での講座について

横須賀市民大学での講座の内容です。

◆講座名 十個のうつわ
◆サブタイトル 日本を代表する十個のうつわから日本人と美を考える

紹介
縄文土器以来、様々な陶磁器が作られてきました。その中から十個を選びました。製作された時代の文化的な背景をさぐり、今ではとても理解できない昔の人の価値観にまで踏み込みます。陶磁器の知識を獲得するだけではなく、現代を考えるきっかけになれば幸いです。

1 1/7 縄文土器の文様はなに? ―十日町市博物館「国宝 火焔型土器」―
2 1/14 最初の陶器は不思議な須恵器 ―京都国立博物館「子持装飾台付壺」―
3 1/21 三井記念美術館にて【施設見学】 ―「長次郎作 黒楽茶碗 俊寛」を見る―
4 1/28 古瀬戸の灰釉陶器は青磁幻想? ―愛知県陶磁資料館「印花灰釉瓶子」―
5 2/4 備前擂鉢はフードプロセッサー? ―岡山県備前陶芸美術館「備前擂鉢」―
6 2/18 熱海MOA美術館にて【施設見学】 ―仁清作「国宝 藤図茶壺」を見る―
7 2/25 中世陶器って何? ―丹波古陶館「古丹波三筋壺」―
8 3/4 陶器に絵を最初に描いたのは唐津? ―出光美術館「絵唐津文三耳壺」―
9 3/11 古九谷はかぶいています ―石川県立美術館「古九谷鳳凰文大皿」―
10 3/18 東シナ海をめぐって ―静嘉堂文庫美術館「国宝 曜変天目茶碗」―

陶磁に見られる境界観念について06

万葉集その2

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追ひて、防人の別(わかれ)を悲しぶる心を痛みて作れる歌一首

天皇(おほきみ)の 遠(とほ)の朝廷(みかど)と しらぬひ 筑紫(つくし)の国は 敵(あた)守る 鎮(おさへ)の城(き)そと 聞(きこ)し食(め)す 四方(よも)の国には 人多(さは)に 満ちてはあれど 鶏(とり)が鳴く 東男(あづまをのこ)は 出で向ひ 顧(かへり)みせずて 勇みたる 猛(たけ)き軍卒(いくさ)と 労(ね)ぎ給ひ 任(まけ)のまにまに たらちねの 母が目離(か)れて 若草の 妻をも枕(ま)かず あらたまの 月日数(よ)みつつ 蘆(あし)が散る 難波の御津(みつ)に 大船に 真(ま)櫂(かい)繁貫(しじぬ)き 朝凪(なぎ)に 水手(かこ)整(ととの)へ 夕潮(ゆふしほ)に 楫(かぢ)引き撓(を)り 率(あども)ひて 漕ぎゆく君は 波の間を い行きさぐくみ 真幸(まさき)くも 早く至りて 大王(おほきみ)の 命(みこと)のまにま 大夫(ますらを)の 心を持ちて あり廻(めぐ)り 事し終(をは)らば 障(つつ)まはず 帰り来ませと 斎瓮(いはひべ)を 床辺(とこへ)にすゑて 白妙(しろたへ)の 袖(そで)折り返(かへ)し ぬばたまの 黒髪敷きて 長き日(け)を 待ちかも恋ひむ 愛(は)しき妻らは

 天皇の防人として筑紫に派遣される兵士の妻の、天皇のために働いてほしい心境と「斎瓮を 床辺にすゑて 白妙の 袖折り返し ぬばたまの 黒髪敷きて 長き日を 待ちかも恋ひむ」という無事に帰ってきてほしいという悲しみの気持ちを歌ったものである。この場合の斎瓮は床辺という場所に据えられることを考えても、出征する防人の魂に通じるものと思われる。

4393

大君の命(みこと)にされば父母を斎瓮(いはひべ)と置きて参(ま)ゐで来(き)にしを

 大君の命令なので、父母と斎瓮を家において馳せ参じました。との意味である。中西進はこの「斎瓮と置きて」の意味を「旅の無事を神に祈った後に出発した意」とした。もちろん斎瓮は神前に供える神酒を入れる瓶とも考えられているので、その解釈も正しいのだろう。しかし、先ほどからの解釈で「私の身代わり、魂、私に通じるもの」である壺を置いてきたとの解釈はできないだろうか。

 斎瓮(忌瓮)はお神酒を盛る土師器、須恵器の瓶であるといわれているが、『万葉集』での扱いをみると、神祇に祈りをささげる祭壇を設けるのに際しては、竹玉や木綿(ゆふ)とともに欠かせないものであるようで、その場合は神酒が伴ったのかもしれない。しかし、床の傍に据えて愛する夫などを待つとの表現を見ると、空の忌瓮が愛しい人の魂に通じているような表現に思われる。井本英一(井本英一『境界祭祀空間』平河出版社、1985)によると『万葉集』の忌瓮は睡眠中、魂が遊離していると信じられたからであろうとしている。そこでは、肉体はうつぼの状態であり、安心した状態でいるために、生の原理としての忌瓮を置いたのであるとしている。睡眠は境界に戻るとの観念があって、このような行為がなされたとしている。つまり人は眠ると、その魂は忌瓮のような壺を介して、境界に行くということである。このことから「斎瓮すゑつ吾が床の辺に」などを解釈すると、忌瓮をわが床に据えることによって、わが魂は夜毎、現世を離れ境界で、愛しい人と一緒になると信じられたのであろう。魂はうつぼなる空間を内包する器によって、異なった空間に飛翔するのである。このことは埴輪、須恵器以来の日本の陶磁器を理解する上で、大切な視点であると思われる。

忌瓮に見られる境界の観念は、六古窯で知られる中世陶器の壺や甕、さらには桃山期の唐津焼織部などにも見られると思われる。それらについては別の機会に書いてみたい。

陶磁に見られる境界観念について05

万葉集その1

 『万葉集』にはいくつか忌瓮が読み込まれた歌が出てくる。忌瓮は「齋戸」、「齋忌戸」、「忌戸」「伊波比倍」「伊波比倍」「以波比弊」と原文では記述されている。中西進訳注『万葉集』では「斎瓮」としている。「斎瓮」とはいかなるものであろうか。そして、その瓶、あるいは壺はどのように境界と関わっているのだろうか。

0379
大伴坂上郎女(おおとものさかのうえいらつめ)の神を祭つるの歌一首
ひさかたの 天(あま)の原より 生(あ)れ来(き)たる 神の命(みこと) 奥山の 賢(さか)木(き)の枝に 白(しら)香(か)付け 木綿(ゆふ)取り付けて 斎瓮(いはいべ)を 斎(いは)ひほりすゑ 竹(たか)玉(だま)を 繁(しじ)に貫(ぬ)き垂(た)れ 鹿猪(しし)じもの 膝折り伏し手弱女(たわやめ)の おひす取り懸(か)け かくだにも われは祈(こ)ひなむ 君に逢(あ)はぬかも

 斎瓮は一般にお神酒を盛る土師器、須恵器の瓶であると考えられているが、(中西進は前掲書、『万葉集』のなかで「斎瓮は神酒を盛る土師器、須恵器の瓶である」と述べている)この場合も「さかきの枝」に御幣のような「しらか」を付け、竹玉を垂れ、膝折り伏して祈る様子が見て取れ、神に祈りをささげる時に重要な奉げものであったことが理解される。なおこの中で、「斎ひ掘り据ゑ」の表現が注目される。掘り据えとは、地面に穴をあけて、さし込むようにして斎瓮が倒れないようにしたのか、掘り据えることが拝礼儀礼として決まっていたのかを考えさせるからである。


0420
石田王(いはたのおほきみ)の卒(みまか)りし時に、丹生王(にふのおほきみ)の作れる歌一首
なゆ竹の とをよる皇子(みこ) さ丹(に)つらふ わご大君(おほきみ)は 隠国(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山に 神(かむ)さびに 斎(いつ)きいますと 玉梓(たまづさ)の 人そ言ひつる 逆言(およづれ)か 我が聞きつる 狂言(たはごと)か 我が聞きつるも 天地(あめつち)に 悔(くや)しき事の 世間(よのなか)の 悔しきことは 天(あま)雲(ぐも)の そくへの極(きは)み 天地の 至れるまでに 杖(つゑ)策(つ)きも 衝(つ)かずも行きて 夕(ゆふ)占(け)問(と)ひ 石(いし)占(うら)もちて わが屋(や)戸(ど)に 御諸(みもろ)を立てて 枕辺(まくらへ)に 斎瓮(いはひべ)をすゑ 竹(たか)玉(だま)を 間なく貫(ぬ)き垂(た)れ 木綿(ゆふ)襷(たすき) かひなに懸(か)けて 天(あめ)にある 左(さ)佐(さ)羅(ら)の小野(おの)の 七節菅(ななふすげ) 手に取り持ちて ひさかたの 天の川原に 出で立ちて 潔身(みそぎ)てましを 高山(たかやま)の 巌(いはほ)の上(うへ)に 座(いま)せつるかも

 この挽歌にも「斎瓮を据ゑ 竹玉を 間なく貫き垂れ 木綿たすき・・・」とある。しかしこの歌では、死んだ石田王を嘆き、もっと壇を据えたり、枕元に斎瓮を据えたりして神に祈っておけばよかったと悲しんでいるのである。枕元に斎瓮を据えるとの記述は神前に神酒を盛る土器・陶器との斎瓮とはやや違うもののように思われる。この枕元とは死んだ石田王の床のことであろう。後に記すようにこの時代、人の魂は睡眠中、身体から遊離すると信じられ、魂を入れておく器、斎瓮を枕元に置いていた。

0443
天平元年己巳(きし)。攝津國(つのくに)の班(はん)田(でん)の史生丈部龍麿(ししやうはせつかべのたつまろ)の自ら経(わな)き死(みまか)りし時に、判官(じょう)大伴宿祢(おほとものすくね)三中(みなか)の作れる歌一首
天(あま)雲(くも)の 向(むか)伏(ふ)す国の 武士(ますらを)と いはゆる人は 皇祖(すめろき)の 神の御門(みかど)に 外(と)の重(へ)に 立ち侍(さもら)ひ 内(うち)の重に 仕(つか)へ奉(まつ)り 玉葛(たまかづら) いや遠(とほ)長(なが)く 祖(おや)の名も 継(つ)ぎゆくものと 母父に 妻に子(こ)等(ども)に 語らひて 立ちにし日より 垂乳根(たらちね)の 母の命(みこと)は 斎瓮(いはひべ)を 前にすゑ置きて 片手には 木綿(ゆふ)取り持ち 片手には 和細布(にきたへ)奉(まつ)り 平(たい)らけく ま幸(さき)くませと 天地(あめつち)の 神祇(かみ)を祈(こ)ひ祷(の)み いかならむ 歳の月日か つつじ花 香(にほ)へる君が 牛留鳥(をしどり)の なづさひ来むと 立ちてゐて 待ちけむ人は 大君(おほきみ)の 命恐(みことかしこ)み 押し照る 難波(なには)の国に あらたまの 年経(ふ)るまでに 白栲(しろたへ)の 衣(ころも)も干(ほ)さず 朝夕に ありつる君は いかさまに 思ひいませか うつせみの 惜(を)しきこの世を 露(つゆ)霜(しも)の 置きてゆきけむ 時にあらずして

 挽歌である。故郷を立って難波の宮に向かった史生丈部龍麿は、思い果たせず自死することになるが、故郷を発った日から母は息子の無事を「斎瓮を 前に据ゑ置きて…天地の 神を祈ひ」ていたのである。この場合の斎瓮は神酒などの入らぬ、空ろなものであろう。420で述べたように、この斎瓮は何も入っていないことが大切なことであり、そしてそれゆえに息子の魂が入っていると信じられたのだろう。

1790
天平五年癸(き)酉(いう)、遣唐使の船の難波(なにわ)を発ちて海に入りし時に、親母(はは)の、子に贈(おく)れる歌一首
秋(あき)萩(はぎ)を 妻(つま)問(ど)ふ鹿(か)こそ 独子(ひとりご)に 子持てりといへ 鹿児(かこ)じもの 我が独子の 草枕 旅にし行けば 竹(たか)珠(だま)を しじに貫(ぬ)き垂(た)り 斎瓮(いはひべ)に 木綿(ゆふ)取り垂(し)でて 斎(いは)ひつつ わが思(も)ふ吾子(わがこ) 真(ま)幸(さき)くありこそ

 天平五年(733)年の遣唐使船出帆時に旅立つ息子のために母が呼んだ歌である。竹珠、木綿、斎瓮をすえて、心をこめて念ずるので子よ無事であってくれ、とのことである。ところで遣唐使船が、瀬戸内海で潮待ちした停泊地とされる、岡山県笠岡市大飛島の祭祀遺跡では、平安時代製作とされる緑釉陶器の小壺などが発掘されている(楢崎彰一『三彩 緑釉 灰釉』平凡社、1990)。場所柄、特別そのような陶器が発掘される理由がないので、それらの小壺は遣唐使船の航海安全の祈願をこめて奉納されたと考えられている。  旅立ちと、その安全の願う母もまた、斎瓮を心をこめて念じ、息子の旅の安全を祈祷したのであろう。この忌瓮には、海外という未知の外側への不安と、忌瓮そのものが外側世界と繋がるものとして強く意識していたことを感じさせる。

3284
菅(すが)の根の ねもころごろに わが思(も)へる 妹(いも)に縁(よ)りては 言(こと)の障(さへ)も 無くありこそと 斎瓮(いはひべ)を 斎(いは)ひ掘り据ゑ 竹(たか)珠(だま)を 間(ま)なく貫(ぬ)き垂(た)れ 天地(あめつち)の 神祇(かみ)をそ吾(あ)が祈(の)む 甚(いた)もすべ無み
 
 「我が思へる妹」の噂が立たないでほしいことも、「斎瓮を 斎ひ掘り据ゑ」て「天地の神」に祈ることだったのだろう。

3288
或る本の歌に曰はく
大船の 思ひたのみて さな葛(かずら) いや遠長く わが思(も)へる 君に依りては 言のゆゑも 無くありこそと 木綿(ゆふ)襷(たすき) 肩に取り懸け 斎瓮(いはひべ)を 斎ひ掘り据ゑ 天地の 神祇(かみ)にそあが祈(の)む 甚(いた)もすべ無み

 この歌も相手に対する思いと、他人の噂(讒言?)を心配する気持ちを「斎瓮を 斎ひ掘り据ゑ 天地の 神にそあが祈む」ますよと歌っているのである。

3927
大伴宿禰家持(おおとものすくねやかもち)、閏七月に越中國(こしのみちのなかのくに)の守に任(ま)けらえ、即(すなは)ち七月を以ちて任所に赴く。時に、姑(をば)大伴氏(おほともうぢの)坂上郎女(いらつめ)の家持に贈る歌二首(その1)
草枕旅ゆく君を幸(さき)くあれと斎瓮(いはひべ)すゑつ吾(あ)が床(とこ)の辺(へ)に

 斎瓮の意味が最もわかりやすい歌かもしれない。直訳すると、旅ゆくあなたの前途が幸多いことを、私の床の傍に斎瓮を据えてお祈りいたします。とのことである。もはや斎瓮は旅ゆく君の分身である。まるで、壺がその神秘の内部を通して、家持に繋がっているような感覚すら感じられる。斎瓮に代表される壺のように内部が空洞でがらんどうのある空間を内包する器は、別の世界に通じている観念をもっていたのだろう。

続く